なぜ、人には「生きがいが大事」なのか


どうして人は「生きがい」を探し求めるのかというと、それは、多くの人が、「自分の生きている意味」を知りたいからなのかもしれません。
「自分はなぜ生まれてきたのか」「自分の人生にはどんな意味があるのか」を考えたことがない人は、おそらく1人もいないでしょう。だから、「使命を感じるもの」ほど、生きがいになりやすいところがあるのかもしれません。

 

これは、哲学的な話であり、あくまでも個人的な意見ではあるのですが、人は生まれてくる前に、「自分にとってのテーマ(使命)」を決めてきているような気がするのです。
そのテーマが「自分が生を受けた意味=生きがい」になりやすいため、そのテーマに沿っていない人生になってしまうと、だんだん日々の生活に違和感を覚え、必然的に「生きがい」を探すようになるところがあるのではないか、と感じるのです。
だから、前述の(3)の例のように、「子供を無事に育て上げることが生きがい」という人もいれば、それはそれとして、「自分の人生における生きがい」を求める人もいて、もしかしたら、前者は子供を育て、母親になるということが、人生の一番のテーマかもしれないし、後者の場合は、それ以外にも大切なテーマがある、ということなのかもしれません。
生きがいを考えることは、自分の人生を見つめ直すことにもつながるので、実は、とても大事なことです。自分の人生を納得できるようになるためにも、大切な作業だと言えるでしょう。

ただし、なかには、自分自身に対して、崇高な理想を抱きすぎてしまい、「自分は何の使命も果たせていない(自分には価値がない)」と落ち込んでしまう人がいます。
生きがいを通して、人の役に立つことや、使命感を持つことは、素敵なことなのですが、必ずしも「それがなかったらいけない」わけではありません。そこはきちんと理解しないと、むやみに自分を苦しめてしまうところはあるでしょう。

精神科医の神谷美恵子さんのエッセイ本『人間をみつめて』(河出書房新社刊)には、「生きがい」についても触れられていて、こういったことが書かれています。

<まぎれもないことは、人間がみな「愛へのかわき」を持っていることである。
その大いなる実体がわからないにせよ、人間を超えたものの絶対的な愛を信じることが、このかわきをみたすのに十分であることを、昔から古今東西の多くの偉大な人や無名な人々が証明してきた。>

<人は生きがいを「何かすること」に求めて探し回る。しかし何かをする以前に、まず人間としての生を感謝とよろこびのうちに謙虚にうけとめる「存在のしかた」、つまり「ありかた」がたいせつに思える。
それは何も力んで、修養して自分のものにする性質のものではなく、前章に述べた「愛の自覚」から自然に流れ出るものであると思う。
まずこの泉を掘りあてれば、私たちは「何かすること」がなくても、何もすることができないような病の床にあっても、感謝して安らうことができる。>

結局、多くの人が、「生きがい=使命感」を持つことで、「自分の存在意義を感じたい」ところはありますが、もし “人間を超えたものの絶対的な愛”を感じることができたら、生きがいがあってもなくても、ただただ「自分は存在してもいいのだ」と思えるものなのかもしれません。そもそも、たとえ人の役に立てなくても、その人の「存在価値」は必ずありますしね。
だから、生きがいは、人生にハリと幸せを与えるのに役立つものではありますが、それがなくても、「自分は、ただただ存在していていい」というわけです。そこに気づくだけでも、心が楽になる人は多いのかもしれません。

前回記事「「自分のミスを認められない人に欠けているもの」幸せに生きるヒントはそこにあった!」はこちら>>

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