4月29日は昭和の日。昭和天皇の誕生日として、天皇誕生日、みどりの日と名前を変えつつ、2022年の現在も国民の祝日として残っています。昭和天皇の在位期間は62年と、飛鳥時代以降に即位した天皇の中では最長。日本国憲法を成立させ、激動の昭和という時代を国民と共に生きた昭和天皇とは、どのような人物だったのでしょうか。物語は昭和を振り返りながら、天皇の生涯を細やかに描きます。
冒頭は昭和20年9月27日。日本の敗戦後、マッカーサーと昭和天皇の第一回会見の日です。
命乞いをしにきたかと思いきや、「私は全責任を負います」と自らの命と引き換えに、自国民を救ってほしいと訴えに来た天皇の姿に、マッカーサーは衝撃を受け、彼の生涯を知りたいと思うところから物語ははじまります。
幼少期の昭和天皇=迪宮裕仁(みちのみや ひろひと)は大正天皇の長男として生まれました。その養育係として任命されたタカ。裕仁の一番近くで世話をする彼女が母親のような存在になっていきます。
10歳になった裕仁は学習院初等科に通っています。天皇は神聖なるもので、永劫不変の存在と言われていた明治の時代。「今、あなたたちが尊敬する人物は?」と教師が質問すると、他の生徒たちは皆「今上天皇(明治天皇のこと)」と答える中、裕仁は一人だけ違う答えをします。
「おじじ様のことはよくわからないが、義経公のことはタカがよく教えてくれる」と理由を述べる裕仁でしたが、院長先生から直々に「なぜ一番に陛下のお名前をお呼びにならないのか」「陛下の御心を誰よりもお察しくださいませ」と問われます。
同級生たちからは皇太子という立場から一線を置かれ、腕相撲をしてみたいと声をかけても「殿下とはできません」と恐縮されてしまいます。
周囲の人間からは、いずれは天皇になる立場の人間として恭しく扱われるばかり。実の母親の皇后陛下も、裕仁には皇太子として厳しく接し、弟の淳宮雍仁(あつのみや やすひと)ばかりを可愛がっていました。孤独を感じる学生時代、養育係のタカにだけは自分の素直な気持ちを話せました。
名字で呼ばれたい。そんな思いで「竹山」の印鑑を自ら手作りした裕仁でしたが、「教育勅語」の授業で戦争時には国民はみな、国=天皇や皇室のために戦うことになるのだと学び、自分は名字を持つ一般人ではないことを自覚します。
朕は 国家なり
明治天皇の崩御後、大正天皇が即位しましたが、病弱な陛下は皇后に、裕仁を早く摂政にさせるよう言うのでした。裕仁は皇太子時代、20歳の若さで摂政を務めます。皇太子が摂政になったのは聖徳太子の時代から4例のみ。25歳で天皇に即位した後、自由に生きる弟たちと比べて、継承する者として自らのこの先の運命を問う裕仁の言葉が印象的です。
私の天皇の代で大戦争が起こるのであろうか。
それが私が生まれながらに背負った運命なのか⋯⋯?
戦後、自らの神格性を否定した「人間宣言」を行った昭和天皇は、個人としての孤独と、天皇として定められた運命の間で何を思い、考えたのか。本作は、裕仁という一人の人間が、国と国民のために自身を律し続け、どうやって天皇になっていったのかが描かれています。個人としての裕仁は内省的な研究者気質で、即位後も顕微鏡をのぞいて植物の研究をしているほど。また、英国の駐日大使によると「性格的に天皇を務めるには向いていなかった」とも言われています。天皇個人の本質と時代の激動ぶりのギャップに、「裕仁自身はこの時代に生きて幸せだったのだろうか⋯⋯?」と考えてしまいます。
令和の今こそ、昭和という時代を背負った人物の生涯を振り返ってみませんか?
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『昭和天皇物語』
能條 純一 (著) 半藤 一利 (原著)
大元帥陛下として軍事を、大天皇陛下として政治を一身に背負い昭和という時代を生き抜いた昭和天皇。波瀾万丈という言葉では言い表わせないほどの濃密な生涯を、半藤一利氏協力のもと、漫画界の巨人・能條純一氏が挑む!
作者プロフィール
半藤一利
東京大学卒業後、文藝春秋に入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、専務取締役などを経て、作家となる。1993年に『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、1998年に『ノモンハンの夏』で山本七平賞を受賞。『決定版 日本のいちばん長い日』『聖断―昭和天皇と鈴木貫太郎―』『山本五十六』『ソ連が満洲に侵攻した夏』『あの戦争と日本人』『日露戦争史1』など多数の著書がある。漫画『昭和天皇物語』は、著書『昭和史』を原作としている。
構成/大槻由実子
編集/佐野倫子
能條純一
1976年にデビュー。将棋漫画の金字塔とされる『月下の棋士』で第42回小学館漫画賞を受賞。『哭きの竜』『翔丸』などが代表作。『昭和天皇物語』では作画を担当。