「こんな時」だからこそ美術館へ行くといい

 

コロナ禍の2年の間に、体に “セルフ自粛モード”が搭載されてしまった筆者。そこにロシアのウクライナ侵攻のニュースが加わり、セルフ自粛モードを解除するタイミングを逸してしまった気さえしています。

もちろん、筆者が何か変えられるわけではありません。それなのに「こんな時に楽しいことをしていいのかな?」と、“いちいち自分にお伺いを立てる自分の存在”がうっすらと残り続けていて、なかなか消えてくれません。そんな筆者が思わずハッとしたのは、おふたりのこんなやりとりでした。

 


原田 大人になるまでに美術館で幸せな空気を覚えてもらえたら、きっと戦争がない世の中になりますよ。紛争地帯では文化芸術を楽しむ場所や時間がなくて、追い詰められている人たちもたくさんいて、文化芸術があることは、平和である証拠のひとつです。

ヤマザキ かつてはアートをお芸術、という感覚で捉えていましたが、いまとなっては、みなさん、海外旅行も行かれていますし、宗教画だから捉えようがなくてわからないといった印象も少ないと思います。子どもたちに関心がある、なしにかかわらず、教育のためにいいとか、悪いとかも無視して、ふだん日常的に馴染みのない場所に行くことで、旅行以外の形で子どもたちが価値観の違いを感じとれるのが美術館の良さでもあります。


この会話から思い出したことがあります。かつて筆者は幼少期に、よく父に連れられて美術展に行っていました。無口な父は、幼い娘と感想を語り合うでも、好きな画家について熱弁をふるうわけでもありませんでしたが、絵を描くことが好きだった私を必ず誘ってくれたのです。

行き先はいつも、年季が入った地元の市民会館。都会のピカピカの美術館とは雲泥の差(といったら失礼ですが)でした。それでも、人の原型をとどめていない人物画、暗い気持ちになる鬱々とした色彩の風景画、消えてなくなりそうな空気が漂う日本画など、アートの“ア”の字も分からないなりに夢中になって眺めていたのを覚えています。

地方の田舎で娯楽も少なく、目の前は見渡すかぎりの田園風景。決して旅行も多い家庭ではなかったため、自分にとってその美術展は、まるで父と遠いところに旅行に来ているかのように思えたものでした。