空気を読んだら、後悔するかもしれない

とはいえ、周囲にとことん自分をフィットさせることで得たものは、「当たり障りのない人」というつまらないキャラクターだったことに後々気づきます。適応診断などのチャートは、突出したところもへこんだところもなく、いつも信じられないくらいきれいな五角形を描くほどの、高レベルな当たり障りのなさ。

過去の飲み会の思い出話にあいづちを打っていると「あれ、あの時いたっけ?」と言われたことは一度や二度ではありません。議論の仲裁をしようとしたら上司に「なんでも丸く収めようとするところ、あなたのよくないところだよ」と嗜められたことも。そんな筆者には、『厄介なオンナ』の次の一節がとても沁みました。


空気を読む

ということを、わたしはやめた。
「空気を読まなきゃ!」というスイッチが自分に入ったときは、「慎重になる!」というスイッチも同時に入れる。いまからするわたしの言動は、後々、後悔につながらないだろうか。つながる可能性があるなら、やめるよ。そうなると、わたしは、とても歯切れの悪い人間になる。


たとえ歯切れの悪い人間になっても、「後悔しない可能性」を選ぶ。
長年にわたって築き上げてきた「当たり障りのない人」キャタクターは今もなかなか手放せずにいますが、青木さんの言葉に触れていると、隅に追いやってきた繊細さや不器用さを、「今までごめんね、帰っておいで」と引っ張り出してあげたい気持ちになります。

自分のポンコツさを許してくれる人だけが残ってくれて、許せない人が去っていくことに何の問題があるだろうか。飲み会で恥ずかしい失態を晒して次から誘われなくなっても、人生の何かが損なわれるだろうか。職場の飲み会も“ちょっと厄介な人”の話に花が咲くものだし、葬儀の会食では“故人の困ったエピソード”に笑いが起こることも多いじゃないか。

 

『厄介なオンナ』が教えてくれる青木さんの“厄介さ”と、そんな青木さんを慕う人たちのやりとりを見ていると、つらつらとそんなことを思うのです。

「あなたって厄介な人だよね」と誰かに言われたら。「迷惑かけてごめんね!」じゃなく「私のことわかってくれてありがとうね!」と返したくなるような。筆者にとって本書は、“周囲にフィットすることが全てじゃない”という当たり前のことに気づかせてくれる、貴重な存在かもしれません。



文/金澤英恵
 

 

 
 
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