以前書いた記事でも触れましたが、筆者は恋をしない人、です。実際、アロマンティック・アセクシュアルといって、他者に性的に惹かれない、恋愛感情を抱かない人は一定数います。そういう人たちがいつも、
「恋をすればわかるよ。まだ出会っていないだけ」
「恋しない、セックスしないなんてもったいない」
「いい年して恋愛したことないなんて、何か問題があるんじゃない?」
「意固地になっているだけなんじゃない?」
という、「人間は恋して当たり前」「恋愛は幸せの絶対条件」というマジョリティの視線に晒されるのです。

 

恋をしない人は、意固地になっていて、恋する人を馬鹿にしている。そして恋をして変わる。

そんなマジョリティの考える典型的なステレオタイプが、これでもかというほどお手本のようにちりばめられたストーリーに、正直クラクラしてしまいました。どこまでもどこまでも、「恋する側」から見た「恋しない人」の描き方なのです。恋をしない理由をトラウマティックに描くことも、「恋をしない人は後天的にそうなった」というスティグマを強化するものです。

 

恋をすることが当たり前でも、すぐれているわけでもない

 

先日、内閣府男女共同参画局が主催する「人生100年時代の結婚と家族に関する研究会」で、教育に“壁ドン”の練習を組み込むことが提案されていたことが大きな波紋を呼びました。この会は恋愛・結婚を推進するプロジェクトなのですが、その資料の「課題」の欄には「アロマティック・アセクシュアル」の記載もあります。

資料中には「課題」の下に、「目指すべきは、恋愛・結婚・出産“しない人”も幸せな社会」とあるため、恋愛したい人への支援が、恋愛しない人に無用のプレッシャーを与えないためにどうするか? という意味での「課題」であったことを願いますが、現時点(6月7日)では議事録が公表されていないため、その内容はわかりません。

恋をしない人は、もちろん後天的にそうなった人もいるでしょうが、元々の人もいます。若者が草食化してけしからん! みたいに言われますが、恋をすることが当たり前でも、すぐれているわけでもないはずです。