「ありがとう」と言わないといけない定型発達(健常発達)の人同士の掟?

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“健常発達の人では、いじわるは直線的に伝わるのに対して、親切は一定の条件を満たしていないとそう簡単にはいきません。「そんなことない。旅先で困っている時に助けてもらってどんなに嬉しかったことか」という反論は当然あると思いますし、親切にまつわるちょっといい話は新聞やテレビでも枚挙にいとまがないほどです。

しかし、一回きりの親切の場合はそういうこともままあるのだと思うのですが、くりかえし一方が他方に親切にする状況であったり、一回だけであってもたとえば腎移植で片方の腎臓を提供するといった大きな親切だったりする場合、与える側がたとえ無垢であったとしても(後から触れるようにこれもなかなかに難しいことなのですが)、受け取る側にとっては、たいていは一定の重さをもった負債になりますし、またある意味当然そうでなければ忘恩にもなってしまいます。”

 

 


何かをしてもらった時、相手に「ありがとう」と感謝するけれど、その裏では自分が意識的・無意識的な負債を抱えることになる。なんとなく、これは感覚としてわかりませんか。「ありがとう」と一方的に何度も言っていると、そのやりとりだけで完結しているコミュニケーションのはずが、相手に借りを作っているような気になる⋯⋯。筆者はこんな例を挙げています。

“障害のために、高校二年生から階段を荷物を持っては自力であがれなくなってしまった女性がそれから何十年かして言ってらっしゃったのですが、その時に同級生に「ありがとう」と毎回言わねばならないことが正直を言うと耐え難いほど嫌だったそうです。彼女は同級生が純粋な善意から彼女の荷物を持ってくれているのをわかってはいたのに、それでも「ありがとう」を言うことは、彼女にとっては常にどこか屈辱的に感じられたそうです。

つまり小さなことではあるのですが、毎回毎回階段を上るたびにかならず「ありがとう」を一方的に言わなければならず、たとえ言わないにしても、ありがとうと思わない場合、大げさにいえば忘恩の徒となってしまうという健常発達の人同士の間の掟が彼女を縛っていたともいえるのではないかとも思えます。”

 


筆者は「なんちゃってシェーマL」という図を出して説明します。

 
“「ありがとう」と言わねばならないたびに彼女が意識的・無意識的に感じる負債感が、aとa'の間の裏のコミュニケーションになります。お金でかたをつけてしまうことができるならば、この裏のコミュニケーションは生じませんが、善意のかたちを取る場合、健常発達の人同士の間では、表のやり取りに付随して、この裏のやり取り、あるいは、いじコミが生じるのを防ぐのは、相当に難しいのがデフォールトなのです。”