自由な私の代わりに伝統や歴史を継承してくれている人たちは、幸せだろうか


私はどうかというと、皇室制度がなくなったら今の仕組みでないと維持できないであろう有形無形の文化遺産が失われてしまうことを惜しむ気持ちと、この制度のもとで皇室に生まれた人や、皇室の人と結婚した人が、果たして幸せに生きられるのだろうかという懸念とがあります。後者の思いが、年々強くなっています。

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私は家柄も資産もない勤め人家庭に生まれ育ちましたが、中学受験で入った私立一貫校の3学年上に黒田清子さん(今上天皇陛下の妹・当時の紀宮さま)が在学していたので、皇族はテレビ画面の中だけでなく、生身の実在を感じられる程度には身近でした。校内には私服警官が常駐しており、バスケットコートや売店で宮様を見かけると、後輩たちは「あ、さーやだ!」と囁きあって、密かに注目したものです。学校の創立90周年式典には、常陸宮妃華子さまが臨席しました。旧華族の家系の子どもたちも在学していましたが、特別扱いはされていませんでした。そういう人たちもいるんだなーと最初は驚いたし、珍しい環境にいることは自覚していました。ただ、学校では特に皇室への崇敬の念を教え込まれるわけではなく、神道などの宗教色もありませんでした。昭憲皇太后や貞明皇后の言葉が大切にされており、お辞儀の長さや挨拶など独特の習慣はあったものの、当時は割と闊達な校風で、変わり者の教師やがらっぱちで個性的な生徒もいて(だから私もやっていけた)、いわゆるお嬢様教育というわけではなかったのです。秋篠宮妃紀子さまがまだ婚約者だったときにテレビで大人気になり、控えめで愛くるしい笑顔と上品な言葉遣いが話題になりましたが、多くの在校生はごく普通のティーンエイジャーらしいあけすけな爆笑トークを日常としていたため、こんな品のいい先輩がいたのか! と私などは非常に新鮮に感じたものでした。たとえ普段着の場ではがさつでも、出るところに出れば礼節を心得て振る舞えることが肝心なのですと、よく担任の先生が話していました。今考えると、なかなか実用的な教育だったと思います。

そんな環境でつくづく感じたのは「何も背負っていない自分は自由だ」ということでした。伝統や歴史を継承することを宿命づけられて生まれたわけではなく、格式を重視した結婚を期待されるわけでもなく、一族の資産を守るよう心を砕かねばならないわけでもない。私は祖父母のことすらよく知らず、会社員の父の収入だけで生活する家庭に生まれ、別荘も外車も教科書に載っている先祖もない環境で育った何者でもない子どもだけれど、自分で何者になるかを選べる自由がある(と10代の頃には感じられたのです)身で良かったと思いました。少なくとも、その機会には恵まれていた幸運な子どもでした。

日本の歴史や伝統は、誰かがちゃんと担ってくれている。そんな感覚もありました。美しいものや大事なものは、私じゃない誰かがちゃんと継承してくれているから、私は乱れた日本語を使っても、着物の着方があやふやでも、歴史がよくわからないまま神社で手を合わせても、自然の恵みへの信心が足りなくても、大丈夫。それはどこかでちゃんとキープされているから。あの美しい十二単は教科書と漫画の中だけじゃなくて、今のこの世に現役の装束として確かに存在する。それを着るのは私じゃないし着る立場になりたいとも思わないけど、あるのはなんだか安心する。そんな、自分がなんとなく大事にしたいと思うものが、皇室が存在することによってかろうじて維持されているという安心感がありました。しかしこれだって個人の幻想を勝手に付託していることに他なりません。それを誰かに痛みや沈黙を強いてまで残したいかと自問すると、否という答えの他には思い浮かばないのです。

世界各地で報じられた英国王の戴冠式。日本ではモーニングと着物姿の秋篠宮ご夫妻の映像が話題になりました。ロイヤルゴシップ記事をスクロールする手を止めて、そこに生身の人間がいることを想像し、ロイヤルファミリーって、自分にとってなんなんだろう? と考えてみることもときには必要かもしれません。
 

 


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