石川県珠洲市内の避難所の様子。写真:AP/アフロ

一部では災害関連の予算不足が指摘されています。確かにそうした面があるのかもしれませんが、他の政策経費と比較すると、避難所を設置するための設備は莫大な費用がかかるわけではありません。その気になれば、欧米基準の避難所の設置は十分に可能なはずです。

筆者は「被災したのだから厳しい環境なのは当たり前」という、日本人の前近代的な価値観が大きく影響しており、これが各種施策の実施を阻んでいるのではないかと考えています。

災害が発生すると被災地には寄付が寄せられますが、日本では、汚い古着などが大量に送られてくるケースがかなりあるそうです。こうした行為を行う人が存在しているということは、「被災者なのだから、薄汚れた古着でも有り難く感じるべきだ」という価値観が存在していることを伺わせます。

 


今回の地震でも、衛生材関連の業界団体が8万枚の生理用ナプキンを被災地に送りましたが、信じられないことにネット上では「水や食料を優先すべきだ」「女性だけが寄付を受け取れるのは不公平だ」という意見が飛び交っていました。これもごく一部だとは思いますが、それにしても、ここまでくると、もはやグロテスクな領域といえるでしょう。

一連の出来事は、生活保護受給者に対するバッシングなどと、根っこの部分ではつながっていると思われます。

生活弱者がバッシングされるのは、貧しい生活を送っているのは自己責任であり、そのような人たちに支援する必要はないという価値観を持つ人たちが一定数存在しているからです。このような人たちは、自分も同じ立場になるかもしれないとは1ミリも考えません。

経済的な問題は自らの努力にも関係しますが、自身とは関係ない問題で貧困に陥る人も大勢います。災害に至っては完全に不可抗力ですが、これも自己責任であると考える人が大勢いるのです。

自己責任とは、あくまで「相応の意思と能力を持った人が参加」することが前提となるゲームでのみ成立する概念であって、不可抗力には当てはまりませんし、ましてや弱者をバッシングする材料などに使うべきものではありません。

貧困や災害までも自己責任であるならば、政府が行っている景気対策や社会保障制度もすべて不必要ということになってしまいます(こうした支援は一切必要ないと豪語できる人など、超富裕層でもない限りいないはずです)。ごくわずかな支出を確保するだけで、災害発生時には国民の誰もが相応の避難生活を送ることができます。お金というのはこうしたところにこそ支出すべきものでしょう。
 

前回記事「東大卒アイドル“環境のせいにして努力しない人間が嫌い”発言から「人の成功は何で決まるのか」問題をいま改めて考える」はこちら>>

 
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