クリニックを午後七時に閉めても、私にはやることが山ほどあった。カルテ整理を始めとする煩雑な業務。それをこなしてから、家に帰るのが常だった。
 そんな最中にひとつの小さな事件が起こった。クリニックの休院日は日曜と木曜だが、水曜日の午後四時半過ぎ、突然のキャンセルが入り、ぽかりと空いた時間のことだった。声はスタッフルームのほうから聞こえてきた。音量は小さいが言い争うような声だ。私は慌てて診察室を出て、半地下の施術室の奥にあるスタッフルームに向かった。柳下さんと、スタッフのなかでいちばん若い下田さんが向かい合い、目を合わせている。私の姿を認めると、二人はお互いから目を逸らした。
「何かあった?……」
「なんでもないんです」
 柳下さんが笑顔を作る。
「なんでもないっていう声じゃなかったよ」
 私は道化になって笑いながら尋ねた。下田さんが私の顔を見た。週に一度、スタッフミーティングを行ってはいるものの、そこでは誰も問題らしい問題を提示しない。
「もっと何か言いたいことはない? 小さなクリニックだし、遠慮なくみんなの意見を聞かせてほしいな」と投げかけてはみるものの、皆、黙ってしまう。これじゃ小学校の学級会だ、と思いながら、必要事項だけを伝えるのが常になっていた。
「下田さん、何か言いたいことがあるんじゃない?」
「…………」そう尋ねても、彼女は押し黙っている。しばらくの間、重苦しい沈黙が流れた。
「柳下さんが……」
「うん」
「先生、柳下さんがいなくなったら困るけれど、私がいなくなっても困りませんよね」
 そう言って俯いてしまった。彼女の言う通りだ、と思いはしたものの、そんなことはどんなことがあっても言えない。私はちらりと、腕時計を見た。もうすぐ午後五時だ。
「柳下さん、もう上がる時間だよね。もうここはいいから」
「でも……」
「お迎え間に合わなくなっちゃうよ」
「は、はい。じゃあ」柳下さんがスタッフルームを後にした。私と下田さんの二人きりになる。
「なんでも話してほしいかな。もう誰もいないんだし……」
 私は彼女に椅子をすすめ、自分も彼女の前に座った。
「先生、このクリニックって私がいなくても成立しますよね?」
「そんなことはないよ。なんでそんなふうに思うの?」
「患者さんも柳下さんがいるからここのクリニックに来る、って方も多いですよね」
「それは確かにそうだね。彼女が前に勤めていたクリニックの患者さんもいらっしゃるしね。彼女はキャリアも長いし……」
「先生、私、ほかのクリニックで働こうか、と思っているんです。そういうお誘いがあって」
 美容皮膚科クリニックではよくある話だ。スタッフの引き抜き。ひとつのクリニックで勤め上げた、というスタッフのほうが少ないのではないか。高い給与、福利厚生、そうしたものにつられて、回遊魚のように、クリニックを替えるスタッフは一定数存在する。女の世界だ。いじめ、人間関係のトラブルに耐えられなくなって、この業界を後にする、というものも多い。
「給与に問題がある?」
「時短の柳下さんより少ない、というのは、私は納得できません」
 彼女が柳下さんの給与を知っているはずがない。どこで、それを知ったのか。柳下さんが口にしたのか。だが柳下さんにはクリニックのスタッフ以上の働きをしてもらっている。時短勤務とはいえ、下田さんより、柳下さんの給与が高いのは当たり前のことだ。そういうことを彼女の気に障らないように言葉を砕いて語りかけたが、彼女の反応は薄い。