彼の酒を飲むペースは速かった。私は次々にやってくる焼き鳥でおなかが膨れていたが、彼は彼で日本酒を手酌で飲み進めていく。時間はもう午後九時を過ぎていた。今日やりたかった仕事もあるが、これだけ飲んでしまったらもう無理だ、とあきらめた。明日の休日をつぶせばいい。特に用事もないのだから。
 その店を出たときには、午後十時を過ぎていたと思う。雨はすっかりあがってはいたが、渋谷の町は雨上がり特有のほこりと、どぶのような臭いがあたりに漂っていた。彼の足下は危うい。
「赤澤さん、もう一軒つきあってください」
 彼が呂律のまわらない口で言うが、早く自分の部屋に帰って、この焼き鳥のにおいのしみついた洋服を脱ぎ、シャワーを浴びたかった。
「いや、今日はこれくらいで」
 そう私が言い終わらぬうちに、彼が柱の陰に隠れて嘔吐した。外国の人のように手のひらを天に向けて肩をすくめたかった。なんてこと。まるで大学生だ。うんざりとした気持ちがわき上がってきた。私は彼の背中をさすることもなく、彼が落ち着くのを待っていた。私は嘔吐したそれ、を見ないようにして、その場にしゃがみこんでしまった彼にウエットティッシュを差し出す。
「何線で帰るの? そこまで送るから」
「僕、今日は帰りません。そのあたりの風俗に寄って帰ります」
 ティッシュで口のまわりを拭いながら、もつれる舌ですねたように彼が言う。ああ、なんて面倒臭いのだろう、と思いながら、彼の腕をとって立たせる。彼から饐えたアルコールのにおいが漂う。
「タクシーを拾うから。自分の住所言ってよ」
 そう言いながらガード下に向かった。横断歩道の前に立っていると、やってくるタクシーの空車の赤いLEDライトが目にしみる。自分も少し、いや、かなり酔っているのだろうと思った。手をあげて止まったタクシーのドアが開き、彼と彼の手にしていた鞄を押し込む。
「ほら、早く、自分の住所を言って」
「……板橋区……」
 そこから先がおぼつかない。彼が目を閉じようとする。
「板橋区の先は!?」
 私もいらいらしていた。彼は窓ガラスに頭をもたせかけてすっかり眠っていた。
「お客さん、どうします? 寝られちゃうとこっちも困るんだけどね」
 老齢のタクシー運転手にせかされる。なんて面倒臭い男なんだろう。私もタクシーに乗り込み、自分の住所をなかば叫ぶように告げた。タクシーのなかは運転手の発する加齢臭と、彼から発せられるアルコールのにおいが充満していて、一刻も早くここから逃げ出したい、と思った。なんて日だ。こんな目に遭うなんて。お酒を飲まない? なんて、勢いで彼を誘った自分がほとほと嫌になった。私は車の窓を少し開けた。
 私は眠っている彼を横目で見た。寝息ひとつたてていない。本当に寝ているのか、と不安になった。彼の演技なのではないか、とふと疑念がわいた。一時的に患者だったとはいえ、名刺をもらったとはいえ、食事をしたとはいえ、彼のことはほとんど知らないに近い。見ず知らずの男だ。いや、すでに見ず知らずではない。神戸で生まれ、京都の大学に行き、東京で就職をして、文房具メーカーで営業をしていて、彼女に結婚をドタキャンされて、薄毛で悩む男。あの店にいたのは短時間なのに、もうそれだけのことを知っている。彼のデータが私のなかで蓄積されつつある。自分だって、結婚や離婚のことをしゃべった。そのことにてらいがなかった。それが少し怖くなった。そうやって人は少しずつ、つながっていくからだ。
 家についたらポカリスエットを飲ませて、酔いが醒めたところで、終電でもタクシーでも帰ってもらおう。そう心に決めて、タクシーを降りて、ふらつく彼の体を支えながら、オートロックを解除し、エレベーターホールに向かった。
 

 


次回更新は、8月26日(水)予定です。


ミモレインタビュー
「【小説家・窪美澄さん】40代の先に、ご褒美のような50代が待っている」>>

 

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主人公の赤澤奈美は、アラフィフの美容整形外科医。カメラマンの元夫とは離婚し、シングルマザーとして息子を育てながら仕事一筋で生きてきた奈美だが、14歳年下の男性患者・公平と恋に落ちて……。


カバー画像/
O'Keeffe, Georgia (1887-1986): Abstraction Blue, 1927. New York, Museum of Modern Art (MoMA). Oil on canvas, 40 Œ x 30' (102,1 x 76 cm). Acquired through the Helen Acheson Bequest. Acc. n.: 71.1979.© 2020. Digital image, The Museum of Modern Art, New York/Scala, Florence