予約してくれたレストランにはタクシーで移動するものと思っていたのに、武臣が「パリらしくメトロに乗りたい」と言うので、久方ぶりに地下に潜った。
ホームに降りると、巨大でシンプルな広告が目に飛び込んできた。かじられた赤いリンゴの写真とコピーだけが書かれている。
「Gleeden」。
以前、ソフィが教えてくれたサイトではないだろうか。
「これ、結婚してたり、恋人がいる人専用の出会い系サイトなんだって」
記憶を呼び覚ましながら指さすと、武臣はギョッとしたようだった。
「え、不倫専用ってこと? 公共空間でよく大々的に広告出せるな……さすがフランス」
自分たちのことは棚に上げて、呆れたような顔をしている。
「でも日本は繁華街で風俗の呼び込みをしてるし、駅前で堂々と女の子にそういうバイトの求人広告ティッシュとか配ってるよね」
「フランスは風俗って少ないの?」
「というか、売春の斡旋が違法だから、そういうお店は存在しないことになってる。女性を買った男性は罰せられるし。でもやっぱり売春で生計を立てている女性もいて、そういう人たちは誰にも守られず自分の責任で客を取るか、マフィアみたいな元締めがいるかで、すごく危ない生活をするしかないみたい。だから合法にして、女性の安全を確保するべきだって声も昔から根強くあるんだって」
ソフィから学んだ知識を得々と披露してみせる。
「フランスにも風俗があれば、男性の浮気は減ると思う?」
いつかソフィにそう質問したら「風俗は浮気じゃないの?」と顔をしかめられたので、
「そういうお店のセックスはプロの仕事だから、恋愛されるよりマシって考えの人は多いみたいだよ」
と、なぜか弁解めいた口調になってしまった。
「どうかなぁ、フランスでそんな気軽にお願いできる店があったら、皆それを利用しちゃうんじゃない? 一回パートナー以外と寝るとハードルが下がって、浮気はもっと増える気がする。だからよくないよ、自戒も込めて」
ソフィは難しい顔つきでじっくり考えた後、とても真剣に答えてくれたのだった。
「武臣は、風俗に行ったことある?」
「ないよぉ、誘われたことはあるけど断った」
私の底意地の悪い質問を、武臣は爽やかに笑って切り捨てた。
本当だろうか。本当な気がする。武臣なら風俗に行く必要なんてなさそう。その気になれば、女の子を口説いてセックスに持ち込んでしまうことはたやすいかもしれない。
結婚する前、啓介にも同じ質問をした。
「一度だけ」
消え入りそうな声で呟き、バツが悪そうに口を尖らせた啓介の赤い顔がふと蘇った。あの時、この男は嘘をつかない、と妙に頼もしく感じられた。
「それよりあのコピー、なんて書いてあるの?」
武臣が私の腕をつつく。「Gleeden」の白抜き文字に興味津々のようだ。
「……私、フランス語苦手だからわかんない」
ÊTRE FIDÈLE À DEUX HOMMES(二人の男性に誠実であること)
C'EST ÊTRE DEUX FOIS PLUS FIDÈLE(それは二倍誠実であるということ)
気鋭の若手シェフによるフレンチディナーは美しく繊細で、凝りに凝ったソースに何重にも重ねた食器、給仕も申し分なく、全てが非日常だった。
おいしいのだろうけれど、胸が重苦しくてしっかり味わえない。一皿ごとに時間がかかりすぎることに苛々する。
私は不安だった。
こんなまどろっこしい儀式はどうでもいい。武臣に今すぐ荒々しく抱きしめ、押し倒し、忘れさせてほしかった。
その実、少しでも生々しい行為を遅らせることができるのにホッとしてもいる。
「緊張してる?」
武臣の余裕が憎たらしい。
「私があと一、二年で帰国したら、武臣は、この関係をどうしたいと思ってる……?」
声が震えた。思い切って尋ねたのに、武臣は少し目を細めただけで相変わらずの笑みだ。
「葉子がいるから、がんばれる。葉子がいるから、幸せでいられるんだ。先のことはわからないけど、この気持ちはきっと変わらないんじゃないかな」
答えになっていない。
だけど、私も同じようなことを考えている。
こうやってお互いにはぐらかし、ずるずる続いていくのだろうか。それで、うまくやっていけるんだろうか……。
NEXT:8月24日(火)更新
ディナーを終えて、ホテルへ向かう二人。<次週最終回!>
撮影・文/パリュスあや子
第1回「フランスと日本の不倫の代償」>>
第2回「夫に明るい顔を見せてあげるのも駐在妻の仕事のうち?」>>
第3回「明日の夜も空いてるかな?」>>
第4回「私が浮気してしまうのは、夫のせい」>>
第5回「日本人はキレイ好きで几帳面で真面目?」>>
第6回「なにを着て行こう?久しぶりにヒールを履いて」>>
第7回「半年ぶりのキス。初めてのセーヌ川クルーズへ」>>
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