当時は毎日探検しているような気分だった
願い叶って住み始めた淡路島。奥田さんは島に対してどのような印象を抱いたのでしょうか。
「正直何もないところだなと思いました。でも何もないからこそいろいろあるんだということがわかるようになってから、面白くなったんですよね。島にはいろいろな方が混在していて、豊かな自然に触れたいという人もたくさんいますし、地方創生の形が都市化することだと思っている方もいます。小さなエリアですし、いろいろな意味で面白い場所だなと」
パソナの社員が増えた今では社員用の循環バスや飲食店なども整いましたが、奥田さんが住み始めた頃は社員もまだ少なく、良くも悪くも何もない状態だったと言います。
「土地のことが分からなかったので、当時は毎日探検しているような気分でした。自分で作ったつながりの中で、地元の人たちとコミュニケーションを取りながら何かを作っていくという流れがあったんですよね。今は自宅と仕事場がバスでつながったので便利ですが、何もない時に来ている立場からすると、それ以外のものを見つける機会がなくて残念なんじゃないかなと思います」
東京にいた頃と変わったのは住環境だけはありません。スーツ姿で大手町を闊歩し、営業として忙しくしていた奥田さんは、毎朝起きたら畑に向かい、3ヘクタールの耕作放棄地を耕す日々を送るようになりました。
「移住して約2ヶ月、車を走らせて北淡路の土地を探し回り、やっとの思いで出会えた場所でタネノチカラの活動は始まりました。私たちは、無農薬・無化学肥料による野菜の自然栽培、土嚢を積み上げて家を建てるアースバッグハウス作りなどを行う“Seedbed”という共創循環型ファームビレッジを始めたんです。ゆくゆくは一般の方に滞在型プログラムを提供することを念頭に、アースバッグハウスはその方たちの休憩用施設として作り始めました。そうは言っても、メンバーは農業なんてやったことがない素人ばかり。専門書を片手に土いじりをして、手探りで野菜を作っていきました。でも徐々にコツを掴み、農薬や肥料を使わなくても美味しい野菜を作れるようになったんです」
そうして変わり始めたように見える奥田さんの暮らしですが、当時を振り返ると「最初の1年は淡路で“暮らす”ということをしていなかった」と言います。
「移住した頃は、今のような暮らしを志している最中だったので、都市部の暮らしをいいと思ってはいけないんじゃないかという感覚がありました。東京に主人がいたので月に1回行っていましたが、当時はまだ“東京に帰ってきた”という感覚でいて。でもそこで東京という都市を楽しんでしまったら、自分の行動に矛盾があるんじゃないかと潜在的に感じていたんですよね。淡路の暮らしに馴染まなきゃという期間があって、その無理している感覚が、東京に行った時の“帰ってきた〜!”という感覚につながっていたんだと思います。自然を大切にすることが暮らしを豊かにするためには必要だということを心から思えるようになってからは、本当の意味で暮らしが変わりました」
次回は移住から3年半が経った奥田さんの今と、淡路島の住み心地について伺います。
取材・文・構成/井手朋子
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