14日、贈賄容疑で逮捕された出版大手「KADOKAWA」の角川歴彦会長(79)。大会のスポンサー選定で便宜を図ってもらう見返りに、組織委員会元理事の高橋治之容疑者(78、受託収賄容疑で再逮捕)に計約6900万円の賄賂を渡したとされている。(写真は2020年当時)。写真:ZUMA Press/アフロ

組織が行った決断、といっても、その組織を構成しているのは一人ひとりの人間です。その中において重要なポストにいた人はもちろんのこと、全体の意思決定を行うにあたって主導的な役割を果たした人物が必ず存在しています。

責任ある立場の人が、どのように振る舞い、それが全体の意思決定にどう影響したのかについて検証することと、個人攻撃することはまったくの別問題です。責任の所在をはっきりさせることと、個人攻撃を混同する考え方そのものが、前近代的な価値観と考えて良いでしょう。

 

加えて言うと、「欧米各国にも汚職はある」という意見も論点が完璧にズレています。ここで問題視しているのは、犯罪者が存在するかどうかではなく、組織の運営に関わる犯罪を、自らの力で検証し、全容を解明できるのかという部分です。

責任の所在をハッキリさせなければ誤りを正すこともできませんし、その後に教訓として生かすことも不可能でしょう。こうした検証プロセスというのは、近代組織としては必須の作業と考えるべきですが、この作業を怠った典型的なケースが太平洋戦争です。

同戦争によって日本は国土のほとんどを焼失し、国家が消滅寸前まで追い込まれるという、歴史が始まって以来の大失態を演じました。ところが戦争の当事者たちにヒアリングをすると、ほぼ全員が「自分は戦争には反対だった」と発言するという奇妙な事態が発生したのです。

「一億総玉砕」などという恐ろしい言葉が出てくるなど、全国民を動員して戦争に邁進したにも関わらず、当事者全員が反対だったなどということはあり得ません。こうした状況に陥ってしまうのは、組織における責任や権限が曖昧で、意思決定が不透明だったことの証左と言えるでしょう。

こうした不名誉な歴史を繰り返さないためにも、宴が終わった今こそ、オリンピックの問題をしっかり検証すべきです。そして、この問題にしっかり対応できるかどうかが、近代国家ニッポンの分水嶺になると筆者は考えます。

 


前回記事「政治と宗教の問題は「信教の自由」を守りながら解決できる。そのために今、最も必要なこと」はこちら>>

 
  • 1
  • 2