それで思い出したのが、またもや先ほどの知人の発言。「全盛期のシンディ・クロフォードが腕毛をふさふさ生やしたままテレビに映っているのを見て衝撃だったが、逆に美の頂点にいるなら毛は剃らんでいいのかと思った」と。当時は今のように身体の多様性を尊ぶいわゆる“ボディポジティブ”の流れはなかったけれど、意図せずしてシンディは産毛に悩む日本の女子たちを解放する身体表現をしていたというわけです。実は私も当時、スーパーモデルたちの腕に豊かな産毛が光っているのを見て密かに励まされた一人でした。

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腕と脚の産毛が多いことに強いコンプレックスを感じていた私は15歳から風呂で剃り始め、50歳の今に至るまで習慣になっています。息子たちにはよく「もしも私が長期入院したら、君たちが見たことのないふさふさのママになってしまうが、どうか驚かないでくれ……」と話しています。きっと羽毛の生えたT-REXを見た時の衝撃にも近いものがあるのではないかと。息子たちは「入院しているときに、毛なんて誰も気にしないよ!」と呆れていますが。

 

で、VIOです。そんなところを見る人は、自分以外にはたまたま温泉で居合わせた人か医療関係者か性的接触を持つ相手ぐらいしかいないわけですが、どうして今、こんなに皆さん気にしているのでしょう。脇毛を生やしてSNSにアップし「自然のままが美しい」という人もいるのだし、この広い世界のどこかには、水着から毛が豊かに溢れ出しているのを美しいという人だっているはずです。毛があろうがなかろうが、美しかろうがそうでなかろうが、どっちだっていいのにね。うん、どっちだっていいんだよね。と言いながら私はまたサロンに行くでしょう。私の毛は誰のもの? は案外深い問いなのかもしれません。
 

 


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