なによりキツかった母への無配慮


そしてそんな中、毎月の通院に付き添い続けた父の晩年、僕にとって最も身近で、「最も空気のように女性蔑視発言を放つ旧弊な男」が、まさに我が父だったのだ。

「だから女は」「所詮女の脳は」。母に対してではなくとも、その女性である母の耳に届く距離でそう呟く父。もう僕は発作的に込み上げる嫌悪の感情に翻弄されて、黙り込むしかなかった。

あと何ヵ月共に過ごせるかもわからない母に、どうしてもっと優しくできないのか。なぜ、蔑み、攻撃する女性の中に母も含まれることがわからないのか。「従容と逝きたい」などと言うのなら、なぜ限られた最期のときを最愛の妻と穏やかに迎えようとしないのか。

思えばもともと父とフラットなコミュニケーションは取れなかった僕だが、そんな僕が最終的に父に対して心を閉ざしたのは、やはりこの時期。その最大の理由が、単なる女性蔑視発言だけでなく、そこに含まれる母に対しての心ない言動、残される妻へのねぎらいや感謝の言葉のなさや会話の少なさ、母の問いかけに応えず無視すること、いらだちをストレートに母にぶつけることへの嫌悪だった。父を目の前にして、こう言ってしまったこともある。

「こうして毎月検査通院に付き添うのは、おかんを支えるためだから」

確かに僕が父の通院を毎度送り迎えしたのは、主治医の口からいつかは出ることとなる「抗がん剤が効かなくなってきた」「腫瘍マーカーにいよいよ悪化が見られてきた」といった言葉を、母ひとりでは聞かせたくなかったから。いずれ訪れるその日を、母とふたりで受け止めたかったからである。ショックを受けた母に、父が傷つけるような言動をするかもしれないし、その瞬間を父と母のふたりだけにしたくないという気持ちもあった。

「あんたのためじゃない」

そう言ったに等しい僕の言葉を前に、父はその理由を問わなかったし、僕も母への態度が許しがたいということを口にしなかった。けれどあの日、限られた時間を生きていた父は、息子からの激しい拒絶にも受け取れるその言葉を、どのように感じたろう……。

写真: Shutterstock

だが、この冷え冷えとした記憶、よくよく冷静になって俯瞰して考えてみれば、これは明らかに僕の側に視点のゆがみがある。

前述のような理由で、僕はネット右翼とミソジニストを濃厚に紐づけてしまい、ネット右翼の定食メニュー的価値観の中にアンチフェミニズムもあるように規定した。姉曰く、僕は若い頃から、「そうした言動をする人間は、こっちのタイプの人間だろう」と決めつけがちだったというが、全く否定できない。

 

だが、父の言葉に女性差別的な発言が含まれたのは、既に検証してきたように父が古きフェミ男子だったこと、年齢的な問題で価値観の刷新ができなかったということで、十分理由がつく。

確かにそうなのだろう。父について、母は常に「本当に自由にさせてもらった。あれをするな、これをするなといったことは一切言われずに、私は本当に自由だったよ」と、しみじみ振り返る。

繰り返すが、父は古いフェミ男子だった。にもかかわらず、僕はそうした父の発言の一つひとつに過激に反応し、「父はネット右翼的だ」とする素材とし、フェミサイドに明け暮れるネット右翼への激しい憎しみを父に対してまで向けていたのだ。

こればかりはもう、亡き父に謝罪の言葉しかない。

 

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『ネット右翼になった父』
(講談社現代新書)
鈴木大介:著

ヘイトスラングを口にする父、テレビの報道番組に毒づき続ける父、右傾したYouTubeチャンネルを垂れ流す父……老いて右傾化した父と、子どもたちの分断「現代の家族病」に融和の道はあるか? ルポライターの長男が挑んだ、家族再生の道程!
 


構成/露木桃子
 

 

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