「……何をおっしゃってるんですか?」
『高宮桃香』は怯えたような、驚いたような顔でこちらを見た。語尾が少し震えている。
「今日の提出書類に、大学の在学証明書とあったはずですが、高宮さんはお持ちじゃなかった。資格証明書も、未提出です。あなたは素晴らしい経歴だったけど、まだ何一つ公的な証明書を出していない。入社までに後送すればいいというのが、そもそも性善説に則った日本らしい方法なんです。それはこちらも呑気ですよね」
「そんなことは……あの、失礼なことを言わないでください」
「あなたが書いた大学の学部学科は、じつは僕の娘が通っているんです。僕の地元でね、祖母の家に下宿していまして。僕にちっとも似ず、優秀なんですよ。ちょっと気になって、クラスの名簿を見せてもらいました。高宮桃香は、在籍してなかった。失礼なことをしてごめんなさい」
彼女はうつむいて、唇を噛みしめている。僕は前を向いて、彼女の顔をなるべく見ないように続けた。
「あなたが2次選考に残ったとき、私は面接官として入りました。うまく言えないけれど、あなたが入社した後のイメージがまったくつかなかった。並べられるエピソードや経歴が、あなたの人となりとちっとも重ならなかったんです。
経歴というのは、その人が選択した積み重ねの歴史なんですよ。だからその人の本質が見えるにしたがって、納得感が上がっていきます。こんなおじさんが、唯一身に着けた職業上の特殊スキルってやつですね」
僕は、彼女が走って逃げたい、しかし傘を借りているために投げ捨てていいものか、ととっさに迷っているのが分かった。その律義さが、いいなと思った。だからこんな風に並んで話す機会が来て良かったと思った。大ごとになる前に。断罪される前に。
「誰も、気づいていませんよ。でも、履歴を偽って入社するのは重大な違反です。バレれば即解雇だろうし、訴えられることもある。……そんなことはお分かりでしょうが。あなたはとても賢い方だから」
「……賢くなんてありません。私、高校も中退です。親の顔もわからないし、パスポートさえ持ってないし、留学なんて夢のまた夢。本当は……」
「そうなんですか? 面接、見事でしたよ、うちの幹部はみんな騙されていますからね。英語だって上手に話してたじゃないですか」
「付き合ってた男がフィリピン人だっただけです」
高宮桃香は、多くは語らなかった。でも僕にはわかる。彼女はきっと、うちみたいな会社で働きたくて、本当の名前で何回も挑戦したのだろう。でも学歴で、経歴で門前払いされつづけるうちに、心が削れてしまった。彼女の話を聞いてくれるところは、何処にもなかったのだろう。
彼女の孤独を、奮闘を、願いをきいてくれる社会は、何処にも。
「高宮桃香さん。内定は、辞退ということでよろしいですね? 皆がっかりすると思いますが……『ご家庭の事情』では仕方ない」
素直にこくんと頷く肩は、小さく震えていた。今ならば、僕がどやされるだけで収めることができる。最初は出来心だったのかもしれない。まさか内定するとも思わなかったのだろう。でもこのまま後に引けなくなって、もし証明書を偽造したりしたら……。今日、彼女と個人的に話す時間ができたことを、僕は感謝した。
人事担当ができることなんて、その程度だ。彼女の人生を手助けすることも、知らないフリをして入社させてやることもできやしない。不甲斐ない。
「僕は、じつは途中入社なんです。最初はもっとずっと小さな会社で人事をしていました。一生懸命働いていたらその経験を買われて、30歳で転職したんですよ。だからうちの会社の生え抜きの社員とはちょっと毛色が違うかもしれない。その分、仕事に打ち込んできました。まあ、学閥とかに縁がないし、出世レースからは程遠いですが……社会って意外に頑張ってると道が拓けたりもするんです。ドアは一つじゃない。別ルートがあるんですよ。大丈夫です」
僕が言っていることは甘い戯言に聞こえるだろう。実際に、きっとそうなんだろう。それでも、僕は伝えたかった。
「反論したそうですね? 聞きましょう、いくらでも。そのくらいしか僕はできない」
私の言葉に耳を傾けてくれたから、うちの会社を選んだと言った彼女。きっとそれは本当のことだ。人事担当の勘が働く。聞こうじゃないか。踏みつけられ続けた彼女の嘆きを。痛みを。
雨はいつの間にか止んでいた。僕たちは、そのままお茶の水の夜の歩道を、いつまでも歩き続ける。
深夜のファミレスで、隣のテーブルの会話が聞こえてきた。次第に「聞いてはいけない話」になり……?
春の宵、ちょっとぞくっとする物語をお届けします。
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構成/山本理沙
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