叱られることへの拒絶反応は、自然で当たり前のこと

 

そもそも村中さんは、「厳しくすること=叱ること」ではないと指摘します。


叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。「厳しさ」の本来的な意味とは、「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことだからです。(中略)厳しくする=「叱る」「苦しみを与える」ではないのです。
――『〈叱る依存〉がとまらない』(P161〜162)より
 

厳しく指導すること=叱ることという勘違いは、至るところにあると思います。こういった思い込みがあるからこそ、「叱られることへの耐性がない若者は、根性がない」なんていう人が後を経たないのだと思います。

叱ることに問題解決への効力はなく、むしろ逆効果で、叱る側のニーズだけが満たされる行為であるならば、そんなものへの「耐性」なんて必要ないはずです。叱られることがイヤ、受け入れられないのは、「弱いから」でも「忍耐力がないから」でもなく、「叱ること自体がよくないことだから」に他ならないと感じます。

 

ある意味、叱られることへの拒絶反応は、自然で当たり前のことだと思うのです。

本書を読んで、「叱ることに意味はないのでは?」という疑問が、確信に変わりました。百害あって一利なし。一種の加害性のある行為だともいえるのではないでしょうか。相手に学習してもらう、課題を克服してもらうためには、「叱る以外の方法」が必要でしょう。

まだまだ社会に根強い「叱られないと人は成長しない」という認識。「叱ることって、そもそも意味がないし、叱る側の欲求が満たされるだけ」という意識に、そろそろアップデートされてほしいと強く願います。


写真/Shutterstock
文/ヒオカ
構成/金澤英恵

 

前回記事「年金は「老後」のためだけじゃない!? いざという時の「障害年金」のために、20代でもしっかり納付しようと思った話」>>