あなたの名前


「……でも、女の人が居ない家っていうのは、いくら豪華な造りでもどこか華やかさに欠けちまうものなんですよ」

コーヒーをポットから注いで、レイナさんに渡す。彼女は頷きながらこう答えた。

「奥様に先立たれるのは、本当に淋しいでしょうね」

……やはり。オレの疑念は確信に変わった。

「一条さん、私……」

「レイナさん、ごめんな。オレ、『一条さん』じゃないんだ」

「え?」

その時初めて、彼女が真っすぐにオレの目を見た。よほど驚いたんだろう。

「この家の主は、確かにアプリ開発で大金持ちになった一条怜治氏だけど、オレはただの別荘管理人兼料理人なんだ。5年前、腰を悪くして長時間板前ができなくなって困っていたところを拾われてね。ご主人様が東京からこっちにくるのは数週間おきで、明日から。それで大掃除してたってわけ。ごめんな、がっかりさせて」

 

「……ッ」

途端に、レイナさんが弾かれたようにソファから立ち上がった。

「君が2度目にこの家に来た時、本当は2軒先まで行っていない。引き返してきたフリだってわかった。ここから奥の道は舗装されてなくてね、雨の夜はぬかるんじゃうんだ。でも君のパンプスは白いままだった。さっき乾かしてやろうと思って玄関に行って気づいた」

「……何を言ってるの? わからない」

「君は、オレの年齢が若いと思い込んでいた。一条怜治氏は30代の富豪として通ってるもんな。オレがこの家の主、一条氏だと思い込んでいたんだろう? でも明るいところで先入観なく正面からオレを見たら、分かったはずだよ。いくら超若いナイスガイでも、30代なんかじゃないことがね。

 

『家に女の人がいない』ってカマかけたら、君は迷わず奥様が亡くなったと言った。去年、ご主人様が奥様に先立たれたことをどこかで知って、なにか良からぬことを考えてきたんだろう? 一晩潜り込んで、何か盗みに来た? あるいは美人局みたいなことかな? 誰かに雇われてる可能性もあるか。こういう悪事を考える奴は、たいてい断れない弱い立場の子を鉄砲玉みたいに使うからな」

黙りこくってしまった彼女。オレは40近く離れた女の子相手に、悪いことをしているような気がして、決まりが悪くなり、ぽりぽりと頬を掻いた。

「まあでも、これはオレの独り言だよ。まだ何も起こってやしない。そもそも、オレがご主人様が居ない隙に音楽ガンガンかけてたり、すぐ名乗らなかったからいけないんだ。可愛い女の子が来て浮かれちゃったんだな、ご主人様には内緒にしてくれよ」

「……」

「それにビールを飲んじまって、君を送っていけないのも良くない。だからまあ、現時点では、オレのほうが分が悪いとも言える」

オレは住み込みの部屋で飲もうと思っていたとっておきの缶ビール2本のうち1本を、彼女の前に置いた。

「……今夜はさ、雨だけど、明日はわからないぜ。年取ると、本気でそう思うんだ。朝が来たら、何度だって、やりなおしゃあいい。オレも板前人生終わって死のうかと思ったけど、こうしてなんとかやってるしな。人間、死ぬこと以外はかすり傷だ。良くないことに巻き込まれているなら、一緒に警察に行ってもいいぞ」

レイナさんは、もう一度おずおずとソファに腰かけると、無言で目の前のビールの缶を開けた。そして小さな声で囁く。

「……あなたの名前を、私はまだ知らないから、きいてもいいですか?」


雨は、少しずつ、小降りになっている。

【第31話予告】
有名な名家の姉妹。妹が抱えるモヤモヤとは……?

夏の夜、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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イラスト/Semo
構成/山本理沙

 

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