すべて掌のうえ
「チロ! ペロ! 遅くなってごめんね、電車がずっと止まっていたの……!」
私はインターホンと同時に鍵を開けて、隣家に飛び込んだ。お散歩の時間はいつも14時から15時頃だったけれど、今日は用事があって16時のつもりだった。運が悪く電車が止まってしまい、すでに18時半。
きっと2匹はお腹もぺこぺこ、おしっこももしかしてカーペットの上にしてしまったかもしれない。
2階に駆け上がると、2匹はしっぽをふりふりしながら寄ってきた。しかし、その様子に切羽詰まったものはない。もしご飯もトイレも夜まで我慢させられていたならば、こんなに落ち着いているはずがない。
「あれ? もしかして、誰かにご飯もらった?」
おやつの骨ガムの残骸を見て、私は確信した。誰かが、ちゃんと昼間、世話をしてくれたんだ。紀子さんが帰ってきたのかも……!?
私は急いで1階にいくと、おばあちゃんのお部屋のドアを遠慮がちにノックした。
「すみません、沢村です。今日、約束の昼間に来られなくてごめんなさい。あの、紀子さんて一度帰ってきました?」
「いいえ、まだ帰っていないわよ~どうぞ入って」
失礼します、とドアをあけると、おばあちゃんはいつも通り、ベランダ近くの椅子に座って編み物をしている。
すっかり暗くなった窓の外で、ごうごうと木枯らしが吹き、庭の木々を激しく揺らしている。
「私、今日は遅くなってしまって。おばあちゃんもしかしてチロたちのお世話、してくれましたよね?」
私はちらりとおばあちゃんの足を見た。普段は杖をついていて、ひとりでは階段を上がれないし、お散歩に出るのも難しいと聞いていた。頭もぼんやりしていて、頼んでも何でも忘れちゃうから犬の世話も頼めない、とも。「まあね、ボケててくれたほうが好都合なこともあるんだけど」と意味深に笑った紀子さん。
おばあちゃんは、いかにも淹れたて、温かい湯気が出るコーヒーを美味しそうにすすった。
「ああ、そうだったわ、今日は2匹がやけに騒ぐからね、階段の下から見に行ったら、柵が開いて飛び出してきたのよ。それでおっかないから、紀子さんがいつもやってるエサを台所で適当にやってみたの。玄関もカリカリするから、ちょっと庭に出してやったら楽しそうだった」
「そうだったんですね、ありがとうございます」と答えながら、階段の上の柵は元通りきちんと閉じていたこと、2階のおやつケースに入っているはずの骨ガムを犬が食べていたことを思い浮かべる。
おばあちゃん、2階には、上がれないはずだよね?
彼女は淡々と編み物を始める。その横顔は、むしろ何もかもお見通しの教師のようにも見えた。
「ねえ沢村さん、単身赴任ていうのは本当に良くないわね。夫婦は一緒に住まないと、どっちも勝手に羽を伸ばすんだから」
「え……?」
私は話の展開が見えずにおばあちゃんの顔を見つめた。
「まあボケた私には関係のないことですよ、息子がよそに女を作ろうが、嫁が真っ昼間から間男と逢引きしてようが、その間の犬の世話を他所の奥さんに押し付けようがね。
大事なのは、最期までお父さんが遺してくれたこのおうち、このお部屋でのんびり暮らすこと。それ以外はぜーんぶ、ささいなことですよ」
おばあちゃんは、にっこりとほほ笑むと、唇に指を当て、奇妙に鋭く、しいッ、と言った。
私は、何も答えず「失礼します」と会釈して部屋を出た。
温かい部屋と違い、一軒家の廊下は身震いするほど寒い。
「……ママ、遅いねえ。最初はアルバイト、夕方までっていう『設定』だったのにね」
私はペロとチロに電気毛布を入れてやりながら、時計を見た。19時になろうとしている。
紀子さんの帰宅時間はどんどん遅くなっていく。そうすることで家の体裁が保たれ、この家に住み続けることが、おばあちゃんの計画だったとしたら?
「よその家に立ち入ると、ろくなことがないわねえ」
私は2匹を撫でながら、このアルバイトを断ったらどうなるのかを真剣に考え始めていた。
次回予告
とても優しい上司には秘密があって……?
構成/山本理沙
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