心が勝手に反応してしまう


市子は自分について語ることはほとんどないのですが、そんな市子が時折漏らす「好きなもの」についての話が印象的です。杉咲さんはそこに、市子という人物の核になるものを見たようです。

杉咲:「はなは水あげへんと枯れるから好き」や「うちな、花火好き。みんなが上見てるときなんか安心すんねん」など、とても心に残ったセリフだったのですが、それについて監督に聞いてみたんです。花については、“自分が行動を起こすことで事が落ち着くというのが心地よいのではないか”とおっしゃっていて。偽りのない植物の反応から自分の存在を確認しているのかなと思いました。花火は、みんなと一緒に空を見上げることで、自分も社会の一員になれたような気持ちになるのではないかと。市子はただ「穏やかに暮していたい」と願っているだけなんですよね。撮影中は孤独や空虚さを感じることもありましたが、何かがすり減っていき満たされていない状態でいることが、市子という人物に近づいていくために必要なことなのではないかと思いました。

 

インタビューなどでは、辛かったことや苦労を聞かれることも多かったようですが、撮影ではそれだけでは表せないほどかけがえのない時間を過ごしたと杉咲さん。何よりも「確かなものが撮れていると言う実感」のある日々だったといいます。杉咲さんの俳優としての人生で、特別な作品であることは間違いないようです。

 

杉咲:私はいち演じ手として、どうしてもいいシーンにしたいとか、いい表情がしたい、相手にちゃんと伝えたいといった目標を自分の中で掲げてしまうところがあるんです。けれど、本当はそんな欲をかなぐり捨ててそこで起こることにただ素直でいたい。『市子』ではそんな欲が抜け落ちた瞬間がありました。ただ相手の言葉が耳に入り、心が勝手に反応してしまう――それは、限りなく市子に接近することができた瞬間だったのではないかと思います。またいつかそんな表現ができるだろうかと考えるだけで途方に暮れてしまうほどに。

 
 

<INFORMATION>
映画『市子』
12月8日(金)テアトル新宿、TOHOシネマズ シャンテほか全国公開

 

川辺市子(杉咲 花)は、3年間一緒に暮らしてきた恋人の長谷川義則(若葉竜也)からプロポーズを受けた翌日に、突然失踪。途⽅に暮れる⻑⾕川の元に訪れたのは、市⼦を捜しているという刑事・後藤(宇野祥平)。後藤は、市子の写真を差し出し「この女性は誰なのでしょうか。」と尋ねる。市子の行方を追って、昔の友人や幼馴染、高校時代の同級生…と、これまで彼女と関わりがあった人々から証言を得ていく長谷川は、かつての市子が違う名前を名乗っていたことを知る。そんな中、部屋で一枚の写真を発見し、その裏に書かれた住所を訪ねることに。捜索を続けるうちに彼女が生きてきた壮絶な過去と真実を知ることになる。

監督:戸田彬弘
原作:戯曲「川辺市子のために」(戸田彬弘)
配給:ハピネットファントム・スタジオ
©2023映画「市子」製作委員会

撮影/Minyoung Ahn(STUDIO DAUN)
取材・文/渥美志保
コーディネート/Shinhae Song(TANO International)
構成/坂口彩