僕は往々にしてこういうところがあって、他人に自分の悩みやショックだったことをシェアするのが得意ではない。人に話すということは、自分ひとりでは持ちきれないものを他人に肩代わりさせることになる。なんだかそれがとても申し訳ない気持ちになってしまうのだ。特に、こういう人の生き死にに関わる話題はなおさらセンシティブだ。犬が電柱におしっこをかけるように撒き散らすことではない。

僕はスマホを置いてベッドになだれ込んだ。そして、なるほど独りで生きるということはこういうことなんだと急激に実感が湧いてきた。

30代後半の頃に、自分は独りで生きていくのだろうとおおよその覚悟を決めた。結婚はしない。子どもを持つこともない。それらは、そう決めた途端に僕を身軽にさせてくれて。自分の下した決断に後悔や不安を抱くことも今まで特になかった。

でもふっと、こういうときにパートナーがいるともう少し楽なんだろうなと思った。やっぱりパートナーと友達は違う。パートナーなら、身内の病気も他人事ではない。もし父になにかあれば、僕の生活スタイルだって変わるし、パートナーにもおのずと影響が及ぶ。だから、まだ未確定であったとしても、状況をシェアしておくことは悪いことではない。そして、そうやって現実を言葉にして吐き出すことで、いくらか気持ちも整理される。人と人が暮らすということは、お互いの喜びも不安も持ち寄ることなのだろう。

でも、僕にはそういう相手がない。不安は不安のまま、胸で小さく震えている。それをどうにかする術がない。

40を過ぎた人生には、きっとこんな出来事がこれからいくつも降りかかってきて。両親だけじゃない。なんなら自分自身の体調にも良くない兆しが訪れる日だって、そう遠くないかもしれない。そのときに、全部ひとりで抱えて、飲み込んで、処理していく。僕が選んだ、独りで生きるという生き方は、つまりそういう生き方だ。その重みに、久しぶりにちょっと立ちすくんでしまった。なんだかとんでもなく間違った選択をしてしまったような罪悪感が、部屋の酸素を薄くする。

健康なときに下せる決断と、体が弱ったり、生活のバランスが崩れたり、経済的に困窮したときに下せる決断は違う。今、僕が考えている「独りでも大丈夫」は、自分が健康的にも経済的にもほぼピーク値にある時点での「大丈夫」であって、それが5年後10年後も「大丈夫」であり続けるとは限らない。そんな「大丈夫」に寄りかかって生きて、本当に「大丈夫」なんだろうか。

 


友人に打ちかけた「父がガンかもしれなくて」というLINEは、結局未送信のまま消去した。誰にも言えない不安を胸に沈めたまま、ひっそりと夜が過ぎていく。父の健康を祈る気持ちと、これからの自分の生き方を案じる気持ちが、代わる代わるに押し寄せて、胸に渦潮をつくる。その渦潮の勢いに飲まれそうになるのを必死で踏ん張りながら、目を閉じた。

僕は本当にこのまま独りで生き続けていいのだろうか。

 
 

新刊『自分が嫌いなまま生きていってもいいですか?』
発売中

講談社・刊 1430円(税込)
ISBN:978-4065331040
※リアル書店にてご注文される場合は、ISBNの数字13桁をお伝えいただくと確実です。
※電子書籍は、書き下ろしのおまけエッセイ付き。

Amazonでのご購入はこちらから!>>
楽天ブックスでのご購入はこちらから!>>

イラスト/millitsuka
構成/山崎 恵
 

 

 

前回記事「「都会の雑踏を、通話中のフリをして...」人に言えない趣味を15年続ける理由【自分が嫌いなまま生きていってもいいですか?】」はこちら>>

 
  • 1
  • 2