ギアチェンジを迫られた時に強いのは、固定観念に縛られない人


――作中で「余は、巷によくいる頑固爺ということか」と鬼卵に尋ねる場面がありますよね。ちょっと笑いました。

たぶん幕政のど真ん中にいるときに、鬼卵のような人にふざけたことを言われたら、怒っていたと思うんです。でも、これまで自分の居場所だと信じていた場所から退けられて、それでもまだ自分の道を貫こうとあがいているときって、人の意見にも素直に耳を傾けたりできるじゃないですか。いやでもギアチェンジしなくちゃいけないタイミングが訪れたとき、いちばん強いのはきっと、固定観念に縛られず、自由に生きている人。そして、定信のような人ほど、もともと軽視していた鬼卵のような自由人に、憧れも抱いているだろうと思いました。実際、定信も風月翁や楽翁という名前をつけて文人墨客と交流したりしていますしね。

 

――本作は、鬼卵に興味を抱いた定信に、鬼卵が自身の来し方を語っていくという構成です。第一章では、鬼卵がみずからの筆名を決めるきっかけとなった、狭山の御家騒動について語られますね。奸臣を重んじ忠臣を斬った当主を糾弾すべく、鬼卵は仲間たちと、名を伏せて『失政録』という本を出して配ったという。

これも実在している本なんですよ。処刑されるとき、ふつうは割腹したあと首を落とされるけど、武法に背いたものは扇腹といって、扇で腹を斬る所作だけをする。それは、武士としての誇りを奪われる非道な行為なのですが、忠臣であるはずの人が不当に扇腹を切らされた、という狭山事件を知ったとき、衝撃を受けました。武家社会の理不尽をこれほど如実にあらわすものがあるだろうか、と。実際の『失政録』も誰が書いたかは今なおわからないままなので、だったら鬼卵も加えてしまおう、と思いました。師匠に促されてそれを書くことで、鬼卵が初めて発奮するきっかけになったらいいな、と。

 


――騒動の当時、若かった定信は君主への憤りをたぎらせたけれど、為政側に立ち、『失政録』発刊の裏を知った今は、御家の事情が不当に漏らされることへの憤りを感じてしまう。鬼卵の義憤だけでなく、そんな定信にも共感する人は多いんじゃないでしょうか。

とくにこの作品は新聞連載だったので、そういう方も多かったんじゃないかと思います。私自身、友人が会社では中間管理職になり、次世代を育てる年齢になってきて、ある程度、自分の正しさを信じて貫くことの大事さも実感してはいるんですよね。横暴になってはいけないけれど、自信がなさすぎてもいけない。若いころより前例を知って、経験も積み重ねているから、感情より手続きを優先しなくちゃいけない場面があることもわかっている……。

それでも一度立ち止まり、肩の力を抜いて改めてまわりを見渡すことも必要だし、何にも縛られず生きている人たちをけしからんと怒るのではなく、受容するためにはどうすればいいか考えるほうが、お互い幸せなんじゃないかなあと、書きながら考えたりもしました。