黒い服の男

「あの引き出しにお手紙が入ってるの。昨日、ママに内緒で書いたんだ。お誕生日にお手紙あげるね、って約束したんだけど……渡してくれる?」

「美菜ちゃんが、自分で渡せるよ! 目が覚めたら、渡してあげようよ」

「うーん、無理みたい。一昨日、夢で見た。黒い服の男のひとがね、『約束ですよ』って」

「約束?」

肌が泡立つような感覚を、どうにか押し殺した。

「うん。美菜は行かなきゃならないってことだと思う」

私は、美菜ちゃんの白くて細い腕から、血圧計を引き抜いた。手が震えるほど、何かに対して、怒っていた。

約束? 約束だと? ふざけるな。

「美菜ちゃん、そんな夢の、変な男との一方的な約束と、ママのお誕生日を一緒に祝う約束、どっちが大事?」

「え? そりゃ……ママのほうが大事だけど。でも」

私は、美菜ちゃんの小さなもみじのような可愛い手を両手で握った。あったかい、泣けるほどに。

 

「知らん男と約束? へそが茶をわかすわ。そんなの知ったこっちゃないのよ。美菜ちゃんは、今日、手術をして元気になる。お母さんにお手紙を自分で渡して、来週のお誕生日はお祝いする。これが、本当の約束。美菜ちゃんが、美菜ちゃんにする約束」

「へそ……?」

まくし立てた私の古臭い言い回しと、怒涛の「約束」に、美菜ちゃんは目をぱちくりさせている。それから、「へそだって。へそでお茶? どういう意味? 初めてきいたよー」と笑った。

そんなことも聞いたことがなくて、急いで行こうだなんて絶対に許さないからね。世界は初めてだらけなんだよ、美菜ちゃん。

行くのは今じゃない。今日じゃない。絶対に。

私はぐっとお腹に力を入れる。私は私に、美菜ちゃんに、今日、全身全霊で手術のサポートをすることを誓う。

 


毎日が奇跡

「最近、調子良さそうじゃない」

夜勤のナースステーション。日誌をつけていると、同じく夜勤の師長が近づいてきて、声をかけてくれた。

「はい、ちょっと迷いが振り切れたような気がしてます」

「それは良かった。じゃあこれからも、ばりばり、うちの科で働いてもらわないとね」

こんなにハードな職場なのに、不死身かのようにいつも明るい師長。去年末、私がオペ看を辞めて他の科に異動希望を出そうかと思っている、と相談したことを、ずっと気にしてくれていたのだろう。

「そうそう、会田美菜ちゃん、心臓外科、無事に退院したのね。あの難しい手術……よく頑張ったよね。優秀なチームのおかげもあるかな?」

 

師長は、座って書き物をしている私の肩を、ぽんぽん、と優しくたたいた。

美菜ちゃんは、帰ってきた。手術のあと、意識が回復したとき、私の顔を見て、『お手紙』と言ってほほ笑んだ。滅多に現場で泣かなくなった私の目から、涙があふれた。

でも、全員が病気に打ち勝てるということではない。悲しいけれど、医療が及ぶ範囲は限られている。

だけど私は、この仕事から逃げない。私は、私の約束を果たしていく。夢物語かもしれない。それでもみんなが元気に退院する日を目指して。
 

次回予告
掃除を頼んだ人が奇妙な行動をとって……?

小説/佐野倫子
イラスト/Semo
編集/山本理沙
 

 

前回記事「「え?そんなことが本当に起こるの…!?」介護で孤独なアラサーの彼女が、驚きの人物に遭遇した夜」>>