「被災者を思い、心を込めて折った千羽鶴」とか「ウクライナへの必勝しゃもじ」みたいなもんは、そりゃ贈った方は気持ちがいいかもしれませんが、もらった側は何の役にもたたないのに悪しざまにもできず、仕方なく「絆をありがとう」くらいの返事をするしかありません。千羽鶴には悪意はないでしょうが、消費期限切れの食品を大量に送りつけるのは無意識の蔑みも垣間見えます。「復興五輪」とか「復興万博」とかはこうした構図を悪用した「なんちゃって支援」の最悪の形であるのは言うまでもありません。 

日本人が大好きな「復興美談」も、私にはその延長線上にあるものに思えます。
例えば家族を失いながらも高校を卒業した被災高校生の新たな旅立ちとか、震災で夫を失いながら家業の立て直しに奔走するシングルマザーとか、港の再建に奮闘する漁師が1年ぶりに漁に出たというような、被災者個々人の精神的な復興は確かに素晴らしいこと。でもテレビ越しに震災を見てきた人々に与える「希望が見えてきた」という印象は、震災そのものの復興にすり替えられた「物語のエンディング」のようになってゆく危険性があります。本来の復興は被災者が被災者生活で経験した(経験している)物質的困りごと、不満、苦労の解消であるべきだし、そこにこそ次の災害への教訓となる経験が詰まっているのです。
100年前の関東大震災の頃とさほど変わらない「避難所=体育館で雑魚寝」は、そうした作業がどれだけおろそかにされてきたかという証でしょう。
「日本の断層マップ」 を見れば、すべての日本人が被災者になりえることは明白です。被災者が「美徳」や「美談」 の中にしか存在できない状況は、今、被災者である人たちだけの問題ではありません。 

同時に「文句を言わずに耐え忍ぶ=日本人の美徳」を、率先して褒めちぎる権力者には絶対に注意が必要です。「美しい」と持ち上げることは、暗に忍従を強いていることにほかなりません。「美しい国、日本」の行く末が、腐敗した政治家が逃げおおせ、税を搾り取られた国民は、一番つらい時に体育館で雑魚寝するしかない、今の日本なんですから。
 

写真/Shutterstock
 

 

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