誰よりも親切にしてくれて、誰よりも酷いことをした人


他人との間に芽生える親密な感情を何と呼べばいいのか、私は今もよくわからない。親子の愛なら実感がある。でも特定の性的パートナーとして位置付けられる他人との間に永続的に発生する代替不能の愛なるものって、よくわからないのだ。流行りの曲にも古典文学にも夥しい数の愛が歌われている。あれってつまりは一時的な性的執着と一方的な幻想が混ざったものではないのかしら。

けど、憧れはある。パースの浜辺で、波打ち際に水着で座って夕陽を見ている老夫婦なんか見るとジーンとしちゃう。ああ、あそこに愛らしきものがある。穏やかで確かな幸せがきっと二人の間にはあるんだわ。まだおじいちゃんがムキムキでおばあちゃんがプリプリだった頃から、ああして二人で海に入っているんだろうな。もしも来世があるのなら、次こそあんな関係を生きられますようにと願う。目の前の白い砂浜は、夕日に温まった金色の波に洗われてとっても美しい。私の人生にはこの先どこまでも色のない砂だけが広がっていて、骨みたいな枯れ木がポツンと1本立っているだけだ。そのイメージが、ずっと胸から消えなかった。

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夫に死んでほしいと思ったことがある。どうか無事でと毎朝祈ったこともある。彼は誰よりも私に親切にしてくれた人で、誰よりも酷いやり方で私の魂を殺した人だ。人生最高の全き幸福と、それが根こそぎ崩れ落ちた瞬間は同じ人物によってもたらされた。なぜよりによって同じなのか。彼が縦に分裂して二人になればいいのにと思った。クソ野郎と、善良な夫に分かれてくれたらいいのに。でも夫はミドリムシではなく人間なので、縦に分裂したりしない。私も原生生物ではないので、夫を死ぬまで許さない自分と生きていかねばならなかった。

 

人を許すのは難しい。まずは相手を許すことを自分に許さなくちゃならない。だがそんな考えが頭を掠めようものなら、脳みその入り口に立っている憤怒の形相の慶子と、腹の底から呪詛を吐き続けている地獄の一遍上人像みたいな慶子が「お前何ひよってんだ!」と怒鳴りながら目を剥いて走ってきて、グイグイ脳みそから押し出されてしまう。あんなクソ野郎を許すなんてとんでもねえ、と慶子らはいう。いいところもあるなんて言ってんじゃねえ、また騙されてるぞお前はああ! とめちゃくちゃ叱られるのだ。

だけどこの世には、善良なクソ野郎や恨み深い慈悲の心なんていくらでも存在する。そういう矛盾を体現しているのが、人間という生き物だ。夫と私はミドリムシの夫婦ではなく人間の夫婦なので、善良でクソ野郎で恨み深くて慈悲深い、すごくめんどくさいユニットを組むことになった。