一方、かつての梅子は良妻賢母こそ女の幸せであり、自分はそれができる人間だと思っていました。けれど、跡取りとなる長男を産むと夫は家庭を顧みなくなり、命よりも大切な息子は姑に取り上げられ、育児すら参加させてもらえない。自分は、ただ跡取りを産むための道具として、この家に迎えられたのだ。そう気づいた頃には、もう遅かった。長男の心は自分から離れ、離婚したくても残る二人の息子の親権さえ女性である自分には与えられない。

梅子は言う、「戦うことから逃げていたら、バチが当たってしまった」と。だから、梅子は糸口を求めた。高くそびえ立つ法という壁を打ち崩す糸口を。梅子もまた戦うために法を学びに来たのでした。

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愛のある家庭に育った寅子からすれば、よねの地獄も、梅子の地獄も、体感し得ないもの。もしかしたら梅子は大学にやってくるまで、そんな地獄がこの世にあることを考えもしなかったかもしれない。よねがどんな思いで男性の恰好をしているかを知りもせず、「水の江瀧子みたい」とはしゃいだ寅子は無邪気で、よねから見れば無神経だったかもしれない。

私たちの日常だって同じです。その人が何を抱えているかなんて外から見ているだけではわからなくて、悪気がなくてもつい怒らせたり傷つけたりしてしまう。それを恐れて、線を引いて付き合うのは簡単だけど、そんな及び腰じゃきっと誰とも向き合えない。本当に必要なのは、知ることです。
 

 


寅子はよねの貧しい生い立ちを知った上で、「いくらよねさんが戦ってきて立派でも、戦わない女性たち、戦えない女性たちを愚かなんて言葉でくくって終わらせちゃダメ」と本気でぶつかっていく。よねもまた級友たちを恵まれていると見下していたけれど、その一人ひとりに自分には知らない地獄があることを理解していく。

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地獄の本当の苦しさなんてものは、当事者にしかわかりません。周りにいる人間が簡単にわかったふりをすること自体おこがましいのだと思います。でも、そこに苦しみがあることを知るだけで、かける言葉も接し方も変わる。わかり合えなくても、分かち合うことはできる。『虎に翼』が描いているのは、異なる地獄を持つ者たちが手を取り合い輪になる姿でした。あのタイトルバックのように。