司法の世界に見られはじめた変化


「揺さぶられっ子症候群」という症状を判別する根拠そのものについて、脳の専門である医師からも疑いの声が上がっている現状を受けてなのでしょうか、事実、捜査機関の態度に変化が見られ始めました。
大阪府在住の山口恵子さん(仮名・38)のケースを紹介しますと、生後7ヵ月の長男が自宅でつかまり立ちから後ろに転倒して硬膜下血腫を発症。緊急手術が行われました。やはり母親による虐待を疑われ、1ヵ月半後には警察による家宅捜索が行われ、追い打ちをかけるようにその1カ月後には児童相談所による一時保護の措置が取られます。そして、転倒事故から1年1カ月後、恵子さんは傷害容疑で逮捕、勾留されてしまったのです。
「警察からは、『おまえが息子の泣き声を聞いてイライラし、突発的に揺さぶったんだろう』と決めつけたように言われました。家庭内の事故だといくら説明しても、何を言っても、まるで信じてもらえないのです……」

児童相談所や捜査機関が意見を求めた医師が誰だったのかは定かではありませんが、その医師は「虐待の可能性が高い」と判断し、その意見を伝えていたのでしょう。
しかし、山口さんは逮捕から3ヵ月後、不起訴処分、つまり刑事裁判にかけないという判断が出されました。警察が、「子どもに対する虐待」として動き、逮捕にまで踏み切ったケースにおいて、起訴を免れるというのは異例の事態です。

山口さん夫婦は、思い当たる理由について、このように語ります。
「息子がけがをした後、虐待を疑われていることを知った私たちは、警察で初めて任意の事情聴取をされた後からSBSの問題に詳しい弁護士に相談し、最悪の事態に備えていました。たしかに逮捕された後は弁護士の指示にしたがって黙秘を貫きましたが、それまでに行われた任意の捜査には、そもそも虐待などしていないので全面的に協力し、自分たちの思いを述べ、供述調書にもサインをしていました。それがよかったのかもしれません。また、第三者の脳神経外科医にも相談してカルテやCTの画像などを見ていただき、『低い位置から倒れるなどしたことが原因のけが』という意見書を書いていただきました。逮捕される前に、『私は虐待していないのだから』という思いで手を尽くしていたことも大きな力となったのではないかと思います」

 

じつは、捜査機関の姿勢の変化は、数字となって顕れています。2018年には少なくとも4件の不起訴処分が出されましたし、刑事裁判になったケースでも2018年~2019年1月にかけ3件の無罪判決が言い渡されているのです。ひとたび起訴されてしまえば、99%以上、有罪判決が出される日本において、異例といって差し支えない事態です。

ほんの一瞬、目を離したすきに赤ちゃんが転んでしまったり、ベビーベッドから落ちてしまったり……。不慮の事故で子どもがけがをすることは、どの家庭においても起こり得ることです。
大切な我が子が、突然の事故や病気で脳に重い障害を負ってしまったら、親としては身を切られるほど辛く、子どもを守ってやれなかった自分を責めることでしょう。にもかかわらず、親である自分自身が虐待を疑われ、ふと気づけば「被疑者」になっている……、今の日本では、そのような恐ろしい出来事が多発しているのです。

じつは、ほかの先進諸国においても、「揺さぶられっ子症候群=虐待」という診断基準に対しては疑問がつきはじめ、刑事訴追することに慎重な姿勢を取る国が増えています。私の取材に厚生労働省は、診断基準を見直す考えはないと断言しています。
とくに子育てをされている方々は、「虐待」の二文字が他人事ではないということを、頭に入れておいていただければと思います。

柳原三佳(やなぎはら・みか)

1963年、京都市生まれ。ノンフィクション作家。交通事故、死因究明、司法問題等をテーマに執筆。主な作品に、『家族のもとへ、あなたを帰す 東日本大震災犠牲者約1万9000名、歯科医師たちの身元究明』(WAVE出版)、『自動車保険の落とし穴』(朝日新聞出版)、『遺品 あなたを失った代わりに』(晶文社)などが、また、児童向けノンフィクション作品に、『柴犬マイちゃんへの手紙』『泥だらけのカルテ』(ともに講談社)がある。なお、『示談交渉人 裏ファイル』(共著、KADOKAWA)はTBS系でドラマシリーズ化、『巻子の言霊  愛と命を紡いだ、ある夫婦の物語』(講談社)はNHKでドラマ化された。近著は、初の歴史大河小説『開成をつくった男、佐野鼎』(講談社)。自身が医療過誤被害に遭った経験から厚生労働省の「医療事故調査制度の施行に係る検討会」委員を務めたほか、「NPO法人地域医療を育てる会」にも参加。 https://www.mika-y.com/

 

『私は虐待していない 検証 揺さぶられっ子症候群』
柳原三佳 著 1200円(税別) 講談社


この本で紹介するケースは、けっして他人事ではありません。「赤ちゃんを強く揺さぶってけがをさせた」として逮捕された親たち。しかし、つかまり立ちからの転倒などが原因であっても「虐待」だとして断罪されていました。最愛の我が子が脳に障害を負うという苦しみのなか、虐待を疑われた親たちの過酷な体験を描きつつ、小児科医、脳神経外科医といった医療関係者、法曹界の専門家の視点を交え、「揺さぶられっ子症候群」という症例の問題点を究明します。

図作成/アトリエ・プラン

 

・第1回「虐待を疑われた親たちの苦悩。「揺さぶられっ子症候群」を巡る問題とは」はこちら>>

 
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