そのうち、並べきれないほどの料理がテーブルの上に運ばれてきた。サモサ、タンドリーチキン、ひよこ豆のサラダ、それに幾種類ものカレーにナン。
「おいしそう!」私はわざと大きな声を出した。
「カレーはシェアしましょう」
 公平がナンをちぎって渡してくれた。
 こんなに二人で食べられるのだろうか、と不安になった。ふと顔を上げる。テーブル席は若い客ばかりだ。この店のなかで自分がいちばん年齢を重ねているのではないか。四十も後半になって、インド料理を心から食べたい、という日などあまりない。元夫は聞いたことのないスパイスを揃えては、インドカレーを作る日があった。そのとき、私はそのカレーをどんな顔で食べていたのか。公平から渡されたナンをほうれん草のカレーに浸して食べた。悪くない。いや、確実においしい。油っこくもないし、くどくもない。公平と目が合う。私は驚いたような顔をして見せた。ナンを飲み下して言う。
「いちばんのおすすめ、という訳がわかった」
「でしょう!」公平の顔が輝く。公平もどんどんと食べ進めていくが、がっついているようには見えない。食事をするときにありがちな男の人らしい乱暴さがなかった。小さな頃から母親にマナーを厳しく躾けられたのではないか。そういう育ちの良さが透けて見えた。
「ほんとうにおいしそうに食べはりますね」
「だって本当においしいもの」
 本心だった。私は口の端についたカレーを紙ナプキンで拭った。口紅の赤がナプキンに滲む。相手は佐藤直也ではないのだ。かまうものか、と思った。そのとき、公平に気をつかうことだけはやめようと、なぜだか思った。彼には言いたいことを言い、思ったことを言う。こうしてたまに食事をする相手ならば、そういう相手でいてほしかった。公平が口を開く。
「僕の元彼女ですけど……」
「元婚約者」
「まあ、そういうことになりますかねえ……いろいろ食べ物の好き嫌いが多い人で……」
「まだ、未練はある?」
 私はグラスに残ったビールをあおりながら尋ねた。
「まあ、ふられたわけですから……」そう言いながら、眉毛が八の字になる。
「敬語禁止ね」
「ああ、そうだった。……ないと言えば嘘になるかなあ」
 そう言って公平は手にしていたナンをちぎり、まるで言いかけた言葉を押し込むかのように口に入れた。なぜ、そのとき、公平のその言葉に疎外感を持ったのか、自分でも不思議だった。嫉妬と呼べるような大層な気持ちではなかった。これだけ年の若い男と会っているのに、自分は恋愛対象ではない、と宣告された気分になったのだ。まだ、女として誰かに興味を持ってもらいたい、と心のどこかで思っている自分がおかしくもあった。
「徹底的に嫌いにならなければ、忘れられないよね」
「そんなもんなん?」
 酔いのせいか、公平の言葉が自然に関西のものになっていく。
「私は夫の顔なんて二度と見たくないと思って別れたもの。そうは言っても、今でもお金がないと連絡が来て、乞われれば、お金を渡しているんだけど……」
「お子さんは、赤澤さんの方に?」
「そう。息子がそう望んだから」
「なら、向こうが養育費渡すのが筋やないか」
「世の中に養育費をちゃんともらってる女なんて驚くほど少ないよ。もらっていたって、多分、子どもがもらうお年玉より少ないもんだよ」
「なら、息子さん、一人で育てたんは赤澤さん?」
「もちろん。大学にも通わせている。学費が馬鹿高い私立の美大に。課題が多くてバイトもろくにできないから、アパートの家賃と生活費も」
「たいしたもんやなあ。苦労しはったんや。ちゅうか、苦労してるやん。今も」
 そんな言葉をかけてもらったことがなかった。今の自分が苦労している、などと思ったこともなかった。自分のわがままで離婚をし、玲から父親を奪った愚かな母親なのだと自分のことを思っていた。養育費の話など出はしなかったし、私から要求したこともない。別れた夫からお金を乞われることだって、自分に責任があるからだ、と思っていた。公平の言葉に自分のどこかが綻んでいくような気がした。驚いたのは、その言葉にわっ、と声をあげて泣きたくなったことだった。泣きたい、という感情をずいぶんと長い間、忘れていたことを思い出した。私はわざと話の矛先を変えた。
「お母さん……」
「ん?」
「亡くなったと言っていたよね、いつか」
「…………」
「あ、ごめん。言いたくないならいい。ごめんなさい」
「いや、ええんですよ。長患いでずっと伏せっていて、結婚式には出ると言うとったんやけど……それで、自分がちょっと結婚をあせってしもうたとこもあって。元彼女も少し僕に押し切られたとこがあったんかもしれん」