筆者が就職活動をしていた時代は、バブル崩壊直後で、当時もやはりコミュ力重視が叫ばれていました。書店には就職活動のマニュアル本が並んでおり、実際、企業の面接に行くと、多くの学生が判で押したように就職マニュアル本に書いてあること(サークル活動を通じてリーダーシップを学んだとか、スポーツを通じて協調性を学んだといったような話)をまくし立てていました。

 

「こんな(同じような)話ばかりして効果があるのか?」と筆者は常々、疑問に思っていましたが、実際、そのような単純アピールで合格を勝ち取る人がいたわけですから、すべては採用する側の能力次第ということなのでしょう。

結局のところ多角的な評価というのは、試験を受ける側の問題であると同時に、試験を行う側の問題でもあるわけです。金太郎飴のような人を高く評価する学校や会社は、所詮、その程度の組織ですから、テストを受ける側もドライに選択するという姿勢が必要となります。

評価する側が凡庸だった場合、家庭環境が良くない人が不利になるのはその通りかもしれませんが、その程度の組織にどれほどの魅力があるのかは疑問なところです。

仮に家庭環境が悪くても、それを自覚して、客観視する能力さえあれば、そうした家庭環境で育ったことを自身のストーリーにすることができるはずであり、能力のある人ならしっかり評価してくれることでしょう。

最大の問題は、あまりにも家庭環境が劣悪で、まともに勉強したり、自身を客観視できるような状況に置かれていない子どもたちです。しかしながら、この問題は試験における評価項目の是非というよりも、社会保障制度や教育制度の問題ですから、これをもってペーパー試験のみにすべきとの根拠にするのは、少々論点がズレているように思います。

近年はITの発達で、単純な知識はググればすぐに得られてしまいます。これからの時代において重要なのは単純な知識ではなく、複数の知識やノウハウを組み合わせて新しい概念を生み出す能力であり、これはペーパー試験の勉強だけでは決して身に付きません。

とはいえ、人が環境によって大きく影響を受けるのは事実ですから、公教育において画一的な指導しか行われなければ、格差問題にもつながりかねません。公教育において、どれだけ多面的・多角的な教育を行うことができるのかがカギを握るでしょう。


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