「母親になる資格などない」


「立っていると辛いでしょう。そんな時は片足を身体の真横に上げて高い場所に置くと良いです。電車を待つ時とかね」

助産婦が手本でみせたポーズが、波止場で黄昏れる船乗りのそれと酷似していて噴き出しそうになる。

オンライン講義を含めた全六回の出産準備クラスが始まった。二週間で集中的に行うとはいえ、開始初日は出産予定日の一ヵ月前を割り込んでいる。こんなギリギリに……と苛立ったが、一緒に受講した他三人の妊婦は私よりも更に予定日が早いと知って驚愕する。

バランスボールに背中を預け、呼吸法の練習をしていると「ゔっ」と呻き声が聞こえギョッとした。

自己紹介の時、私の二日前が出産予定日と言っていた人だ。口元を手で押さえ、よろよろトイレに向かう彼女は後期つわりがひどいらしい。他二人の妊婦もプロテクターがないと腰痛で歩けなかったり、逆子が直らなかったり、不便や心配を抱えている。

今まで自分は皆から「はいはい順調ですねー」と軽くあしらわれているようで不満だったが、実際かなり幸運な経過だったのかもしれない。クラスのなかで最も小さいお腹すら、ラッキーなことに感じられた。
 
講義最終回はパートナー同伴で、まずは呼吸法の復習。次に陣痛を乗り切るために妊婦をどうサポートするかパートナーがレクチャーを受ける。お尻のあたりをリュカに押されながら、日本では「いきみ逃しにテニスボール」が有名だと話すと、助産婦は「それ効果あるの?」と爆笑した。クラスも笑いの渦に包まれ、完璧にネタ扱い。

そのとき、助産婦の携帯が鳴った。例の後期つわりで苦しんでいた妊婦の姿がなく心配していたが、彼女かららしい。

「いま産院で、昨日無事に出産したそうよ!」

電話を切った助産婦が、今までみせたことのない慈愛に満ちた笑みを浮かべた。皆が歓声をあげるなか、私はほぼ出産予定日が同じ妊婦が既に出産したことに衝撃を受けていた。37週目、もういつ生まれても不思議じゃないんだ……

最後は抱っこ紐体験で、数種類を代わる代わる試す。赤ちゃん人形を抱いたリュカはなかなか様になっていて「パパの準備OK」という自信が滲み出ているよう。現に赤ちゃんのベッドやオムツ替え台、ベビーシートなど必要品はリュカが数日かけて調べ上げ、着々と準備が進んでいる。

私は「あれが必要かなぁ、これもいるかなぁ」と久実子の受け売りを口にするだけで、いつも以上に仕事に精を出し、普段挑戦しない凝った料理を作ったり、気になっていたドラマを一気見したり、むしろ子供に煩わされない最後の自分の時間を惜しんでいた。

「お腹を痛めて産んでこそ我が子」フランス人には説明できない、日本の精神論 _img0
 

同時に、ここ最近でせり出したお腹が邪魔で、夜は寝苦しすぎ「どうせ生まれるんだから、早く生まれて、早く育って、早く手が離れないかなぁ」と投げやりになったりもする。そして「こんな自分は母親になる資格などない」と気持ちが塞ぎ、ふいに涙ぐんでしまうのだった。

「マタニティブルーってやつだよ。今はリラックスして、好きなように過ごせばいい」

 

リュカのいつもの楽観的な優しささえイラつく。全部「ホルモンバランスの変化のせい」で片付けられたら苦労しない。何を言われても不機嫌な顔をしてしまいそうで、気分転換に一人で散歩に出れば幸せそうな母子とすれ違い「私もあんなふうになれるんだろうか」と余計に滅入る始末。

どうしても自分自身に根本的な欠陥がある気がしてならず、不安に押し潰されそうだ。

「それじゃ赤ちゃんが苦しいわよ」

抱っこ紐のなかで首が曲がってしまった赤ちゃん人形の体勢を、助産婦が直してくれる。胸に抱き直した人形の顔を覗き込むと、いかにも白人のそれで、私を非難するように大きな二重をカッと見開いていて怖かった。

NEXT:5月12日(木)更新
日本の親友・久美子がとうとう出産したけれど.......その壮絶な出産体験とは?

「お腹を痛めて産んでこそ我が子」フランス人には説明できない、日本の精神論 _img1

<新刊紹介>
『燃える息』

パリュスあや子 ¥1705(税込)

彼は私を、彼女は僕を、止められないーー

傾き続ける世界で、必死に立っている。
なにかに依存するのは、生きている証だ。
――中江有里(女優・作家)

依存しているのか、依存させられているのか。
彼、彼女らは、明日の私たちかもしれない。
――三宅香帆(書評家)

現代人の約七割が、依存症!? 
盗り続けてしまう人、刺激臭が癖になる人、運動せずにはいられない人、鏡をよく見る人、緊張すると掻いてしまう人、スマホを手放せない人ーー抜けられない、やめられない。
人間の衝動を描いた新感覚の六篇。小説現代長編新人賞受賞後第一作!


撮影・文/パリュスあや子
構成/山本理沙

「お腹を痛めて産んでこそ我が子」フランス人には説明できない、日本の精神論 _img2
 

第1回「「男性不妊」が判明した、フランス人の年下夫。妻が憤慨した理由とは」>>

第2回「​「赤ちゃんがダウン症ってわかったらどうする?」フランス人の年下夫の回答」>>

第3回「フランスと日本の「妊婦事情」のちがい。ダウン症検査への母の思いは...」>>

第4回「フランス人助産師の衝撃のアドバイス。日本人妊婦の不安とは? 」>>

第5回「「もう私を女として見られなくなった?」性欲に蓋をされた妊婦の、羞恥と怒り」>>

第6回「ベビー服をそろえ、胸が熱くなるも...妊婦が感じる「寂しさ」の理由 」>>

第7回「​「お腹の赤ちゃんの顔が、まさかの...」妊娠7ヶ月の母親が驚愕した出来事とは? 」>>

第8回「フランスに「高齢出産」という言葉はない。35歳以上の妊婦の反発心とは?」>>