今でも覚えていることがある。まだ営業マンだった頃、なかなか仕事が終わらなくて、窓の向こうがすっかり真っ暗になっても残業をしていた。オフィスには、僕の他にもうひとり男性の営業マンがいた。同じ課だけど、そんなに仲良くはない相手だった。僕は特に彼に話しかけることもなく、せっせとプレゼン資料をつくっていた。

 

うちの課では22時以降の残業が禁止されていた。まだ完成していないパワーポイントを強制的に終了し、僕は席を立つ。彼も同じように席を立った。なるべくエレベーターが一緒にならないタイミングで出たいな。人見知りの僕がそんなことを考えながら帰り支度を整えていると、彼が近づいてきて、こう声をかけた。

「よかったら、ちょっと飲んで帰らない?」

正直に言って意外だった。彼とは課全体の飲み会でくらいしかお酒の場を一緒にしたことがないし、そもそもサシで飲むような関係値ではない。そして、はっきり言うとあんまりウマが合うようには思えなかった。彼は、見た目も話し方もチャラいタイプで、2人で飲んでも何の話をしていいかわからない。時間も時間だし、明日のことを考えれば、断る理由はいくらでもあった。

でも、僕は誘いを受けた。わざわざ断るエネルギーを使うのが面倒だったというのもあるけど、シンプルに言うとうれしかったのだ。たとえ気まぐれだとしても、そうやって誘ってもらえたことが。

安い居酒屋のカウンターに2人で並ぶ。会話は、思いがけないほどに弾んだ。彼はよく笑ってくれた気がするし、僕もよく笑った。確かにノリは軽かったけど、その軽薄さはそれほど親しくない僕たちが2人で飲む上ではとてもいい潤滑油になったし、何より彼はとても仕事熱心だった。営業として自分が大切にしていることは何か。どうすれば課全体がもっと良くなるか。そんなことを真面目に語っている彼は、自分と別世界の人間なんかじゃなかった。よく知りもしないのに、見た目とか、雰囲気とか、そういうもので勝手に線を引いていた自分を、僕は恥じた。

終電近くまで飲んだのに、翌朝、体は嘘みたいに軽かった。始業前のオフィスは人影もまばらで、まだ彼の姿は見えない。僕は彼が着いたら昨日のお礼を言おうと心の準備をしがら、席を立ってトイレに向かった。

トイレから出ると、ラッシュタイムが重なったのだろう、エレベーターホールに人だかりができていた。ちょうどその中に彼の後ろ姿を見つけた。僕はおはようと声をかけるつもりで、彼の背中に近づいた。すると、彼は隣にいた数名の同僚と談笑をしている最中みたいで、大きな笑い声を立てた。そして、隣の同僚が意外そうに「横川さんと飲みに行ったん?」と話を振った。ちょうど昨日の飲みのことが話題にあがっていたのだと思う。僕は自分の名前が出た瞬間、反射的に身を縮ませた。そして、その予感を証明するように、彼ははしゃぎ声を上げた。

「そう。襲われなくてよかった〜」

いかにも冗談らしくオーバーな素振りで彼はおどけた。隣にいた同僚たちもつられるようにはやし立てる。その楽しそうなやりとりを見ながら、僕は自分の心臓が冷えていくのをはっきりと感じていた。