“不寛容な社会”が人を許さない


日本人の多くは今、心に余裕がなくなってきています。それは、「ミスが許されにくい不寛容な社会である」ことが原因であることが、大いにあるでしょう。世間が、失敗した人に厳しすぎるのです。
「私、失敗しないので」というのは、ドラマの中だけの話。そんな言葉がもてはやされているようでは、日本はまだまだと言えるかもしれません。本来は、「失敗しても、みんなでカバーするから大丈夫」と言える世の中にしていかないといけないからです(※もちろん、ドラマのように命にかかわることでの失敗は許されないことですし、それ以外のことであっても、まずは「失敗した人が反省していること」は前提ですが)。

若者ですら、“失敗を恐れず、やりたいことにチャレンジする人”よりも、“失敗を避けて、無難に生きようとする人”は少なくありません。「失敗すること」に慣れていない分、この世知辛い世の中でミスを犯してしまうことを、必要以上に恐れているのかもしれません。
こんな風に「自分の不完全さ」を許せなくなってしまうと、他の人の失敗に寛容になれるはずはないでしょう。

不寛容な社会だからこそ、罠を仕掛ける人すら出てきます。もし正しい活動をしている人を邪魔だと思うような悪人がいたら、今の社会であれば、その正しい人にわざと失敗をさせて排除されるように仕向ける手段が簡単にとれてしまうのです。
それでは、ずる賢い人ばかりがはびこりやすくなってしまうでしょう。

 

みんなで「ミスをカバーしよう」と思える環境に


ただし、大人になったら、「そんな社会が悪いから、仕方ない」なんて言ってはいられません。社会は、私たちが変えていかないといけないですしね。
今後、寛容な社会にするためにも、私たちができることはなんでしょうか。

たとえば、この3つは必要かもしれません。
・ノーミスを求めるよりも、失敗する可能性があることも前提に、みんなでカバーできるようになること
・失敗して反省した人を、いつまでも責めないこと
・失敗しても、その後、成長した人には、「リベンジできるチャンス」を与えられるようになること

それが結果的に、「自分がミスをしたときも助けてもらいやすくなる」ことにつながります。
結局、どんなことも「明日は我が身」。自分がミスをしてしまい、困った状況から抜け出すときには、「手を差し伸べてくれる人がいるかどうか」が重要となってきます。

そういう救世主が現れるかどうかは、「日頃の自分の在り方」にもかかっています。
それで言うと、初めの話に戻りますが、トラブルが起こったときに「私は悪くない!」なんて言っている場合ではないのです。
少なくとも、ミスをしてしまった人に対しては「大丈夫。何とかしよう。私は何をすればいいかな?」とやさしく声を掛けられるくらいになったほうがいいでしょう。

「私は悪くない!」と言ってしまうのはかっこ悪いこと。だけど、そういう人を責められない社会的な背景も現実的にあります。謝れない人は良くないけど、“謝りにくい社会”も悪い。
少しずつ私たちが寛容さを取り戻し、フォローし合える環境にしていきたいものですね。
 

 

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