そしてそれは、中学2年生のときに決定的になる。当時、世界中で大ヒットしていた映画『タイタニック』。一家で映画館まで行くことなんてほとんどなかった我が家でさえ、世の熱狂に乗せられ、家族総出で観に行った。14歳の僕にジャックとローズの一生で一度の恋がどこまで理解できたかは定かではない。どちらかと言うと、沈みゆく船の中で最後まで演奏し続けた楽隊の生き様に感動したのを覚えている。

 

だが、何より少年の僕の心に残ったのは、男は救命ボートに乗れないということだった。映画の中で、女性と子どもから優先的に救命ボートに案内されていた。体力のことを考えれば当然のジャッジなんだと思う。男たるもの、弱きを守るのが使命なんだと頭では理解できる。でもあのとき僕は、大人になった自分がタイタニック号に乗っていたら助からない見込みの方が高いんだということがショックだった。

それからというもの「男たるもの」みたいな文脈がどんどん苦手になっていった。プロポーズの決まり文句である「君を一生守る」がちっとも理解できない。この安全大国・ニッポンで細腕の僕が何から君を守ると言うのか。大人しくセコムを設置した方がよっぽど頼りになる。「君を幸せにする」という言葉も好きじゃなかった。どうして男性が女性を幸せにしなければいけないのか。幸せは2人でなるものだと思っていた。

でも、周りの男性はすんなりそうした価値観を受け入れていた。むしろそういう価値観に順応できる人ほど男らしいともてはやされていた。できれば自分も救命ボートに乗りたいと願う僕は男の風上にも置けないやつだった。女の子のスカートの中身にも、筋トレにもまったく興味を持てない僕は、男失格だった。

社会に出たら出たで、男らしさのない僕はますます居場所がなかった。そもそも一般職が良かったけど、どの企業も男性の一般職は受け付けていなかった。新卒で入った会社を辞め、何の職歴も資格もない文系男子に残されているのは営業職のみ。どうして男だからって外回りに出なきゃいけないんだろう。人を支える仕事に喜びを感じる僕はどう考えても内勤の方が向いていた。

そういう意味では、ライターという仕事にありつけたのは幸運だったと思う。ありがたいことに忙しくさせてもらっている。ただ、やはり僕の書くものは圧倒的に女性読者が多い。最近は女性誌から声をかけてもらう機会も増えたけど、いまだかつて男性誌に呼んでもらったことはない。たぶん僕が『LEON』に寄稿することは生涯ないだろう。

一方で、男の僕が女性向けの記事を書くことを歓迎する人もいれば、そうでない人もいる。記事の感想をチェックしていると、時折「こういうイケメンにキャッキャしている記事を書いて許されるのは、この人が男性だから」という声が上がる。実際、そういう側面がまったくないとは思わない。男性ということで、下駄を履かせてもらっているのだろう。

だけど、読者が楽しんで読めるよう自分なりに細かい工夫を凝らしていて、そういう人が気づかないような努力を、男性というだけで矮小化されている気がして、やるせなくなる。もしも僕が女性だったら、いいも悪いも含めてフラットに評価してもらえたのだろうかと詮ないことを考えてしまう。