友人関係にしても9割が女子。女友達とサシで飲みにも行くし、2人で旅行にも行く。一生くだらない話をしていられる女友達に恵まれたことは、僕の人生の幸福の一つだと思っている。

 

だからと言って彼女たちとすべてを分かち合えるわけではない。当たり前だけど僕には生理はないし、低気圧の影響も皆無。出産のタイムリミットに関する話題が上るたび、「横川さんは男性だからいいけど」と言われ、なんとなく申し訳ない気持ちになっていた。男性上位社会や女性蔑視について議論が白熱するほど、自分の無自覚の特権性や加害性を突きつけられ、縮こまるより他なかった。

結局、男性といても、女性といても、どこか身の置き場がない。僕は、一体何者なのだろうか。

僕にとっての性別は、たとえるなら血液型や星座くらいの、その人のプロフィールを埋める項目の一つで。「B型は自己中心的」とか「乙女座の今日の運勢は、見極めが肝心」とかいろいろ言うけど、科学的な根拠なんてなくて、多くの人は本気で信じていないけど、ちょっと参考にしたり、雑談のネタにするにはちょうどよいもの、くらいの感覚だ。そもそも血液型も星座も自己申告しなければわからない。

でも実際のところ、性別は、血液型や星座よりは重めに僕たちにのしかかり、分断を生んだり、対立の火種になったりする。ほとんどの人が僕を最初に見たら「男性なんだ」と判断するし、それ以降の僕の言動に対して「男性だから」というジャッジがつきまとう。それが、しんどい。

男性でありたくはない。だけど、女性になりたいわけでもない。どっちつかずのヤジロベーはいつも不安定で、自分が何者かを決めかねている心もとなさが、気道のあたりにつまっていて、それが自分の息苦しさの原因になっている気がする。

ただシンプルに、男でもなく、女でもなく、横川良明だとしか思っていないし、僕のあらゆる個性は性別に紐づくものではないと思ってほしい。この感覚が、どれくらい人に理解してもらえるのか、書きながら今もちょっと不安でビクビクしている。

 

昨今は、「ノンバイナリー」というセクシュアリティも社会的に広まり、僕もそうなのかなといろいろ目を通してみたけれど、確信を持って「ノンバイナリーです」と名乗れるほどの強いものが、今はまだない。

ただ、黒でも白でも青でも赤でも何色でもなく。僕は、僕としてここにいる。願っているのはただそれだけで、ただそれだけが意外に難しい。

でも、できることならば残りの人生をかけてそういう生き方ができるようになったらいいなと、ぼんやりと、でも静かな決意を持って考えはじめている。
 

イラスト/millitsuka
構成/山崎 恵
 

 

 

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