『自分のこと嫌いなまま生きていってもいいですか?』というタイトルをつけて、このエッセイを始めて8ヵ月が過ぎた。相変わらず自分のこと好きじゃねえなあとは思う。自分のこと好きになりてえなともまったく思わない。「もっと自分を愛そう」と言ってくる人には、「うっせえ、ほっとけ」と左フックを決める準備は万端だ。

 


ただ一方で、自分のことは嫌いだけど、だからと言って幸せになることをあきらめているわけではないという気持ちもどんどん強くなっている。自分のことが好きか嫌いかと、幸せかどうかは、別個の問題だと思っている。

じゃあ、どうしたら自分が嫌いなりにハッピーに生きていけるか。今回、心と体に不具合が起きて改めて感じたことは、せめて自分の大事にしているものくらいは自分で守ってやらなきゃいかんよな、ということだった。

茨木のり子の『自分の感受性くらい』という詩がある。国語の教科書にも載っているくらい有名な詩なので、たぶん読んでいる人も多いと思う。僕は昔からこの詩が好きだった。時代や人のせいにしない茨木のり子の力強い言葉が、まるで定規みたいに自分の背筋を伸ばしてくれた。

こうした自責思考は過剰に自分を追い込みすぎるものとして近年あまり歓迎されていない。それでも僕はこの『自分の感受性くらい』が好きだ。たぶんそれは終盤で彼女が綴る「尊厳の放棄」という言葉が胸に刺さって抜けないからだと思う。僕は、僕自身の尊厳を決して放棄してはいけないのだ。

原稿の件で言えば、この人にはもう何を言っても伝わらないと見切りをつけた時点で、僕は問題を編集者のせいにしていた。茨木のり子が見たら、「ばかものよ」と一喝するだろう。

僕が素敵だなと思う人たちも、きっと自信があるとかないとか、自分が好きとか嫌いとか、そういううわべのことではなくて、守るべき感受性をちゃんと守れているから、そしてもし尊厳を奪われそうになったときは決して引かずに戦っているから、カッコよく見えるんじゃないだろうか。あのときの貫井さんみたいに。

つまり、幸せになるために重要なことは、自分が好きか嫌いかじゃなくて、自分の大事なものを自分で守れているかどうか。僕が僕のことをどう思うかは僕の勝手だ。でもだからと言って、誰かが僕を勝手に安く見積もったりバカにしたり傷つけていいわけじゃない。自分に自信がないと、ついここが混同してしまいそうになるのだけど、この線引きを誤らなければ、僕は僕のまま幸せに生きていけるんじゃないだろうか。そう今は考えている。

 

この連載も第1クールはここで一旦終了です。と言っても、アニメで言えば第1期みたいなもの。今ここに書いたことは、あくまで途中過程。暫定的な答えみたいなものです。2期に向けて準備を進めていくので、また読んでもらえたらうれしいです。

そう簡単に強くはなれないし、弱いままでいいと開き直れるほどの潔さもない。中途半端で、ズルくて、情けなくて。そういう自分を「自己肯定」はできなくてもいい。だけど、「自己受容」できるぐらいにはなりたいなと思いながら、もうすぐ僕は40歳になろうとしている。
 

※この連載は今回が最終回となりますが、しばしのお休みを経て、さらにパワーアップして再開予定です。ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!
 

イラスト/millitsuka
構成/山崎 恵
 

 

 

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