よく「毎日を丁寧に生きること」が大切だと聞きます。でも、その本当の意味、そこにある神髄を理解している人は、意外と少ないのかもしれません。
本当の意味で、「丁寧に生きる」とは、どういうことなのでしょうか?

 

単に「衣食住を丁寧にすること」ではない

 

「丁寧に生きる」ということで想像することといえば、掃除を隅々までやって、料理は出汁をとるところから作って……なんてことを考えがちですが、それだけで「丁寧に生きている」と言えるのでしょうか?

たとえば、何かに対してイライラしながら、ゴシゴシと掃除をして、部屋がピカピカになったのだとしても、それは、「丁寧に生きている」とは言えません。そんな生活をしていても、本人に幸福感は少ないでしょう。

逆に、隅々まで掃除はできなくても、丁寧にコーヒーを淹れて飲むことで心が整うこともあります。
つまり、「丁寧に生きる」の神髄は、単に「衣食住をきちんと整える」といった表面的な行動のことではなく、「心に従った行動をすること」や「行為1つ1つに心を込めること」だと言えるのではないでしょうか。

「心に従って生きる」大切さ


「忙(しい)」という漢字は、「心を亡くす」と書きます。慌ただしいときは、頭の中にある「~しなきゃいけない」という思考を優先にして、心をなおざりにしがち。
「自分がどうしたいのか、何を求めているのか、どうしたら心地よいのか」なんて考えている余裕はなく、ただただ目の前の作業をこなしてしまうものです。

そんなときは、部屋が汚れていても、簡単に食事を済ませても、大切な人ときちんと心を通わせられなくても、「ま、いっか!」になりがち。
でも、心のどこかでは、「部屋が散らかっていて、居心地悪いなぁ」「あまりおいしくないなぁ」「時間があれば、もっときちんと話したいのに……」と感じていることも。自分の中から湧き上がる思いを誤魔化したり、それすら感じないように心をシャットダウンしてしまったりしていることが多いのです。
そんな日々の過ごし方をずっと続けてしまうと、心がしっくりしなかったり、ざわざわしてしまったりします。心では「そんな生活を望んでいない」からです。

私たちはロボットではないので、「頭(CPU)の命令通りに効率よく動けばいい」なんてことはありません。人間には「心」があります。その心の声を大切にしてこそ、「生きる」ことにつながるのです。

実は、「丁寧に生きること」は、ある「神道の教え」と通ずるところがあります。それについては、次のページで紹介します。

次ページ▶︎ 「丁寧に生きること」と神道のある共通点

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