「人を消費する」とはどういうことか


──メディアはセンセーショナリズム(扇情主義)がもはや常套手段になっていると思います。でもきっと初めは大変な現状を伝えよう、知ってもらおうっていう動機だったと思うんです。一方で、その目的を離れてPVをとることが正義になると、いかに可哀そうな話を、仰々しく過剰に盛り立てるかに振り切っていくし、それがもう業界しぐさになる。職業病みたいな感じで息をするようにしてしまうから、それが悪いことだなんて疑ってすらないと思うんです。やっぱりどうしてもセンセーショナルなタイトルのものがランキング上位になりやすいんですよ。だから数字の正義だけでいうと正しい。

五十嵐:人間って悲惨なものを見たがる。それって人間の根源的な欲求だと思います。自分もフィクション・ノンフィクション問わず、センセーショナルなものは見てしまうんですよ。でも現実に生きている人を消費して利用するというのはやっぱりやってはいけないと思うんです。

 

──可哀そうな話を聞いて、壮絶な人生を送っている人を見て、涙を流したいという欲求を持っているのが人間だけど、そういう欲求を満たすために個人の体験があるわけじゃないとも思うんです。自分が取材された時、その役割を果たしてしまっているなと思うことがあって、やりきれなくなるんですよ。消費されたなーってすごく感じます。当事者を消費するということの罪深さについてずっと考えているんですが、「消費する」という行為がなかなか言語化されていないとも思うんです。

 

五十嵐:「消費する」って、その対象を同じ世界に住む人間として見ていない感じがするんです。一段二段上から相手を見下していて、コンテンツにし終わったらはい、さようなら、と。取材する1時間や2時間だけその人が世界に存在しているわけではなく、その人の人生は取材後も数十年続いていく。そこを考えず、記事を作るためのコンテンツだと思うのだとしたら、それは消費しているということだと思います。

──私は、グロいもの見たい欲、好奇心だけ満たされて、問題について考えるきっかけが生まれないのであれば、それは当事者の話が消費されたということなんだと思うんです。当事者の「問題について考えてほしい」という目的は達成されず、制作者側がうまみだけとって、PVをあげるということに利用する。見た人の血肉ともならずに排出される、というイメージです。