パンドラの箱


目を覚ますと、ホテルの部屋のベッドの上に寝かされていた。

洋二さんが、心配そうにのぞき込んでいる。

「洋二さん……」

呼びかけると、夫は大丈夫だよ、というふうに頷いた。記憶を必死にたどると、私はロビーで倒れてしまったようだ。

洋二さんは、黙ってきゅうっと私の手を握ってくれた。

いつだって彼は、耐えられないような悲しいことを一緒に耐えてくれた。彼が支えてくれなかったら、私はとっくにこの世にいないだろうと思う。

……最愛の娘を、15年前に喪ったあの哀しみを、一緒に引き受けてくれた夫。

「……ごめんね、洋二さん」

「美佳子、落ち着いたね。ごめんね、1人にして。僕が油断してしまった。最近、調子が良かったから」

洋二さんは、私の手をぎゅうぎゅう握って、自分の額に押し付けた。

今年、会社を定年退職した洋二さん。まだまだ働けるのに雇用延長しなかったのは、私のことがあったからだろうと思っている。

私に認知症前段階の兆候があり、デイサービスに通うようになったのは去年のこと。いまのところお薬も効いているし、対処療法が奏功しているから日常生活に大きな支障はないけれど、時々、時間軸が混乱したり、約束を忘れたりしてしまう。

 

記憶が混乱すると、自分がまだ若かった頃に戻ってしまうこともあった。

そんなときは、15年前に事故でなくしてしまった1人娘の里恵と「会う」ことができる。

今朝のように、一緒に出掛けることもできる。……私にしか見えない娘だけれども。

「ホテルに迷惑をかけてしまいそうだったから、さっきは辛いことを思い出させてごめん。でも美佳子、里恵のことは心配しないでいいんだ。もう迷子になって怯えることも、お腹を空かせることもないよ。大丈夫だよ」

夫の掌が大きく、熱く、私の頭を何度も撫でた。生きている人間の温かさ。私と洋二さんが、里恵にずっとあげたかったもの。涙が、あとからあとからこぼれて、枕に落ちた。

「ごめんね、洋二さん。弱くてごめんなさい。私、病気を利用して逃げてるのかも」

「何いってんだ、美佳子はちょっとボケちゃっただけで、まだまだ元気だよ! だからこうして旅行にも来たんだ。会社も定年だし、これからは2人で毎日話して、いっぱい散歩や買い物に行こう」

「ちょっとボケちゃった、って。洋二さんたらそんなホントのことを」

私は思わず笑ってしまう。夫のこういうところに、どれだけ救われてきただろう。

里恵がいる「夢」を見ているときは、とても幸せだけれど、頭の調子はまだらですぐに現実に戻る。

そして全部思い出したときの恐怖……おそらく味わったひとにしかわからないだろう。自分が壊れてしまった恐ろしさと、里恵がもうこの世のどこにもいないという絶望。

それをボケちゃった、と笑ってくれる夫に、私は縋りつきたいほど感謝した。

「大丈夫だよ、美佳子。そう急がなくても、そのうちまた3人で暮らせる。里恵はあっちで待ってるからね。だからもうしばらくは、俺と2人でこっちでのんびりしような」

私は大好きな夫にしがみついて、何度もうなずいた。

待っててね、里恵。お母さん、もう少し、お父さんとこっちで頑張ってみる。

精一杯日々を頑張って、頑張ったら、私たちはきっとそう遠くなく、娘のところに行けるだろう。

その日まで、私は生きるのだ。放り出しはしない。

里恵が生きられなかった毎日を、一日一日、積み重ねる。

 
【第35話予告】
3歳の娘と遺された夫。妻の四十九日の前に起こる奇跡とは?

夏の夜、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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イラスト/Semo
構成/山本理沙

 

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