人々の自意識を狂わせる“肩書き問題”の闇


さて、本を出すにあたって編集さんとちょこっと相談したことがある。それが、僕の肩書き問題である。

普段から仕事でプロフィールの提出を求められたとき、僕は肩書きを「ライター」で通している。実際、読者の方々もライターとして認知しているだろうし、僕もライターという職業に誇りと愛着を持っているから、まったく問題はないのだけど、本を出すとなると話は別だ。

特にエッセイなどという読み物は、書いている人が誰かということが重要になる。ただでさえ知名度の低い著者なので、つけられる箔はつけておいた方がいい。別にライターが悪いということは一切ないのだけど、単著を出すときの肩書きとしては作家性に欠けるのもまた事実。ということで、プロフィールの肩書きの最初は「エッセイスト」となった。

エッセイスト……? 僕が……?

いや、実際こうしてエッセイを書いて原稿料もいただいているわけなので、エッセイストと名乗ることに問題はない。だが、なんと言うのでしょうか、ちょっと実績を水増ししているような後ろめたさがお尻のあたりをムズムズさせる。「どうもエッセイストの横川です☆」と語尾に星でもつけなければ、自我が保てそうにないくらい恥ずかしい。この羞恥心の正体はなんなのだろうか。

肩書きというのは常々人の自意識を狂わせる。日本のようなステータス社会だと、まだまだ肩書きで人をジャッジする人も多い。そこで他人にナメられないために、あるいは自分がいかに特別であるかを誇示するために、「ハイパーメディアクリエイター」などと人はよくわからない肩書きを捏造する。

社内の階級としては平社員なのに、商談の場で威厳を持たせるために「営業チーフ」などありもしない肩書きを名刺にくっつけている事例をサラリーマン時代に数多見てきたし、昨今の世の中を見ていても「エバンジェリスト」とか「メディアアクティビスト」とか、なにをしているのかよくわからない肩書きは結構多い。

 

 

僕のような書き物をしている人間の中にも大なり小なり肩書きへの頓着というのはあって。ライターと括られることを嫌がる人もいるし、コラムニストやエッセイストといった肩書きの方が序列は上だという認識も暗黙の空気としてあるように思う。