母の声


「……今日の面談は教室長にお願いしたハズですが」

3日後。ようやく面談にやってきた聡介のお母さんは、いつもの笑顔とは打って変わった能面のような顔でやってきた。

ついに「仮面」をかなぐり捨てたのだと、僕は悟った。

「聡介君の面談は、6年生になってからずっと彼を担当している私が受け持ちます」

「……何を言ってるんですか? 6年になってから選抜クラスにあと一歩の状態です。聡介は本来の実力が出せなくなりました。ただのミスが重なっただけで、あんなクラスに……!」

僕は、手元の成績表に目を落とす。じりじりと、右肩下がりに落ちていく彼の成績。

反比例するように、お母さんの「狂気」の分量が増していった。少しずつ。

 

「先生の指導だけでは心許ないので、夏から個別指導塾週2回と、プロ家庭教師を2人つけています。選抜クラスと2番目ブロックでは解く問題が違いますから、聡介が戻ったときに差がつかないように、そこも自主的にカバーしています。ですからいい加減に戻してください」

「……うちの塾はどこよりもカリキュラムがハードです。さらに聡介君に負荷をかけているということですか」

お母さんは、今日初めて、少し嬉しそうに笑った。

 

「もちろんです。できることは全部、してやっていますわ。睡眠時間も6時間は確保できています。眠くなるといけないので、塾が終わってからは上半身裸で、立たせて勉強しています」

母親の歪んだ自慢に、僕は思わず目を閉じる。聡介の毎日を想像した。

教育をサービス業にして飯を食っている塾講師が、キレイごとを並べても意味がない。顧客が求めているのは道徳でも理念でもなく、合格。そのために年間数百万もの大金を払っている。そして僕たちはメソッドを売っている。

それでも、強い怒りが、腹の底からふつふつと湧いてきた。

「土日は12時間も塾にいて、さらに睡眠6時間? 裸で立って勉強? それ、ご自身でできるんですか? 課題ばっかりどんどん投げてないで、復習と定着の時間をしっかりとるべきです」

「あなたみたいな若い先生、これだからいやなんですよ。この校舎に来たばかりですよね? 現実見てます? みんな課金、課金。塾は偉そうにしてますけど、こなしきれない課題を与えてふんぞり返ってるのはそっちでしょう!? 

私たちがどんな思いで子どもに伴走してると思ってるんですか? どうせ合格も不合格も他人事なのに! こっちは……こっちは取返しがつかないのよ!」

悲痛な叫びが、教室に響く。異変を感じたほかの講師が何人も飛んできて、ドアの外から腕を大きくバツにしてジェスチャーを送っている。(撤収しろ、撤収!)と口をパクパクさせていた。

僕は手を挙げて、大丈夫です、とゆっくり口を動かした。

俊介のお母さんは選抜クラスの保護者会にずっと無断で潜り込んでいた。教室長に確認したら、そんな許可をした覚えはないという。

「実力が出せない」と彼女は繰り返す。「息子の本当の力は、こんなものじゃない」と。ミスが重なっただけなのだと。

「大丈夫。お母さん、聡介は大丈夫です。選抜クラスじゃなくたって、全く問題ありません。そんなことは本来、大した話じゃないんです。2月1日ですよ、本番は。クラスがなんだっていうんです」

「そんな……何を能天気な……」

僕は、この1ヵ月で聡介が提出した過去問の解答用紙を、お母さんの前に広げた。

「大丈夫ですよ。彼は、今必死にやっています。不安に負けず、彼をよく見てください。お母さんにしかできないことです。それにたかが中学受験です。受かっても、落ちても、彼の価値は全く損なわれたりしない」

お母さんは、意味が分からないというように僕を見て、力なく首を振った。

「大丈夫。不安なことは全部僕に話してください。全部、全部聞きますから」

お母さんは、もう首は振らなかった。代わりに、身を振り絞るように、机につっぷして泣き始める。

親でもない、責任もない、ただの一講師の僕。親子が背負う重圧に比べれば、所詮他人事だ。

それでもずっと願って教壇に立ち続ける。親子の受験がかけがえのない経験になることを。

信じている。本気で挑んだならば、無駄なことは何一つないのだと。

僕は、彼女が再び立ち上がるのを、そこでいつまでも待ち続けた。

【第40話予告】
夫の転勤についていった妻。田舎町で思わぬ窮地に陥り……?

秋の夜長、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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イラスト/Semo
構成/山本理沙

 

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