——何か、娘さんが興味を持っていたものはありましたか?

当時、娘が唯一関心を示したのが、水の入ったペットボトルなどの容器。水の入った容器を、すべて逆さまにして床に置き直すんです。なんでも逆さにして動いて回るので、娘が通った跡がよくわかって……夫とは「この子はおもしろいことをする。天才かもしれないよ」と話していました。

お天気ニュースも好きで、気圧配置の画面が映ると、テレビに張り付いていました。そんな姿を見ると今度は夫と「気象予報士が向いているかもしれないね」と、娘の将来に夢を膨らませていました。

 

——娘さんの成長に一抹の不安を抱く一方で、二人目のお子さんについても考えていらっしゃったのでしょうか。

私と夫は結婚当初から、子どもは2人ほしいと思っていました。当時すでに30代半ばでしたし、キャリアの不安を覚えつつも、2人目を授かれば、続けて育休を取ることができる、とも考えていたんですよね……。

 

幸運にも、次女を授かり、私は長女の育休から続けて産休に入りました。妊娠した途端に切迫早産になりましたが、長女の母子分離ができていないために入院できませんでした。そこで母が10ヵ月間、名古屋の私たちのマンションに住み込んでくれたのです。私は産婦人科の診察や娘の整形外科の通院以外、寝たきりの生活を送りました。

——お母さまの住み込み、それは何よりも心強かったのではないでしょうか。

母は毎日、娘をバギーで散歩に連れて行き、私には食事を作って、通院も付き添ってくれました。長女の1ヵ月に1度の整形外科の診察だけは私が行く必要がありましたが、それにも母が付き添ってくれて……。治療方針を決めるときなど、本当に大事なときは主人も同行してくれましたが、基本的にはすべて母のサポートに頼っていましたね。母の献身的な看護がなければ、次女はこの世に無事に産まれてこなかったとすら思います。次女が産まれるまでは、長女の発育の心配も棚上げになっていました。

——お母さまのサポートを受けながら、二人目のお子さんも名古屋で出産されたのですね。

はい。どうにか38週0日までもたせ、予定帝王切開で次女を無事に出産しました。でも、生後1ヵ月健診が終わった翌日には荷物をまとめ、私たち家族4人と母は名古屋から東京の私の実家に戻りました。子どもが2人となって、名古屋で私だけでの育児は到底無理だと考えて……。夫は私たちを送り届けたのち、単身赴任先の名古屋に戻りました。

第4回はこちら>>>【障がい児を育てながら働く④】“復職”したい。けれど長女を“受け入れてくれる場所”がない...

著者プロフィール
工藤さほ

1972年12月生まれ。上智大学文学部英文科卒。1995年朝日新聞社に入社。前橋、福島支局をへて、東京本社学芸部、名古屋本社学芸部、東京本社文化部で家庭面やファッション面を担当。2012年育休明けからお客様オフィス、2019年から編集局フォトアーカイブ編集部。子ども家庭審議会成育医療等分科会委員。東京都出身。


★「障がい児及び医療的ケア児を育てる親の会」は、朝日新聞厚生文化事業団の共催で2023年7月にオンラインによる連続セミナー「障がい児・医療的ケア児の親と就労」の第1回「障がい児を育てながら働く 綱渡りの毎日」を開催しました。

★第2回セミナーは10月21日(土)午前10時~、オンラインにて開催します。「取り残される障がい児・医療的ケア児の親たち」をテーマに、障がい者の家族の暮らしを研究している佛教大学教授の田中智子さん、厚生労働省、こども家庭庁の担当者を招きお話を伺います。(セミナーは10月18日(水)18時申込〆切)
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構成・文/工藤さほ
編集/立原由華里