「誰かがやってくれるだろう」が通用しない、家族が動かなればならない局面

 

しばらくして、ヘルパーさんから、好子さんがとても痛がっていると連絡がありました。薬を飲み、すぐに痛みはおさまりましたが、認知機能の低下から、定期薬もほとんど飲めていない状況です。今後また、一人の時に痛みが出る可能性がありますが、その時に薬も飲めず、誰かに連絡もできない状況だとしたら、好子さんのつらさが増すことになります。

そこで息子さんに再度連絡し、状況を伝えて、入院先の登録を改めてお願いするも、「本人がまだ一人で生活できると言っているので、大丈夫です」の一点張り。確かに好子さんは、状態が落ち着いているときに「大丈夫?」と聞けば「大丈夫」と答えます。しかし認知症の好子さんが、今自分の身に何が起こっているかを理解した上で、今後の選択をすべて一人でやることは、どう考えても難しく、家族の協力が必要な局面です。にもかかわらず、依然として息子さんは動こうとしません。

 

それから一週間もしないうちに、ヘルパーさんから「好子さんがとても痛がっている」と連絡がありました。薬を飲むと痛みはすぐに落ち着きましたが、長い間痛みと闘っていたのか、好子さんは全身にびっしょりと汗をかいていました。この事態を受け、やはり現状のままで一人暮らしを続けるのは、好子さんにつらい思いをさせるだけなので、一刻も早く環境を整備するか、療養場所を再検討する必要があると確信しました。

改めて息子さんに連絡すると、「とにかく仕事が忙しいので、救急車を呼んでどこか病院に連れていってもらえませんか?」と言います。言わずもがな、救急車は緊急事態に呼ぶもので、薬を飲んで落ち着いている好子さんの移動手段として使うわけにはいきません。そこで、ここはどうしても家族が動かなればならない局面であることと、好子さんの現状と今後の生活について、好子さんの在宅医療に関わっている職種みんなで息子さんに何度も伝えました。息子さんはそこでようやく重い腰を上げて、渋々といった感じで動き始めましたが、「誰かがやってくれるだろう」という考えは、本当に困りものだと痛感しました。