「今目の前にいるあなたと一緒にいたい」という距離感が心地よかったのではないかと思う


そうした複雑な人物像に、演じ手としての彼女は「台本を拝読した時点から味わったことのない感覚を覚えました。この役を演じた先に、想像のつかないような景色が待っているのではないか」と感じたといいます。撮影中には、これまで味わったことがない感覚を覚えた場面もあったのだとか。

ひとつは、高校生の市子が「ある大きな事件」を起こしてしまう場面。嘘を重ねることで、かろうじて普通の生活を獲得したかに見えた市子の人生は、この事件によって再び大きく狂い始めることになります。

杉咲:何度もテストを繰り返し、本番はワンカットの一発撮りで、シーンとしてもかなり緊張感のある場面でした。美術部の方々が準備したものを本番までなるべく見ないようにして、初めてそれを目撃した瞬間に、なんというかもう、「取り返しのつかないことをしてしまったんだ」という、とてつもなく恐ろしい感覚に襲われて、撮影中に手が痺れて震え出したんです。お芝居の最中にそんな状態になったことがなかったので、とても驚きました。そしてカットがかかった後、横にいるスタッフさんをふと見たら、腰を抜かしているように見えて。なにか、本当にいけないものを共有してしまったような感覚に襲われました。

 

そしてもうひとつは、その事件から7年後。偶然出会い、3年間共に暮した男、長谷川からプロポーズされる場面です。市子の笑顔が涙でクシャクシャになったのは、信じられないほど幸せだったからです。

 

杉咲:長谷川くんは市子の年齢も出身も、もしかしたら本当の名前すら知らない、警察に聞かれても確信を持って答えることができないんです。彼は、市子が「市子」であろうとなかろうと「今目の前にいるあなたと一緒にいたい」という理由で一緒にいてくれた人で、市子にはその距離感が心地よかったのだと思います。全てを告白して一緒にいることだって、もしかしたらできたかもしれない――そうですね。でもそれをしなかったのは、やっぱり「悪魔」な側面があるからなのかもしれません。

このプロポーズの翌日、市子は静かに荷造りをして、彼女の人生でおそらく最初で最後の幸せ――長谷川から逃げるように、姿を消してしまいます。