一目散に走り出した洋司を、私は心のなかで死ぬほどなじる。

しかし熊は、思ったよりもずっと鷹揚だった。洋司にも、私にも大した興味がなさそうに一瞥すると、ゆっくりと茂みに戻っていく。

――助かった……!?

私は熊が視界から消えてもなお、2、3分ほども動くことができなかった。熊が戻ってくるのが怖かった。隔たりのないところで遭遇した熊は、幸運にも殺気立っていなかったが、それでも生殺与奪を握られていると感じさせる迫力があった。

完全に気配が消えてから、私はようやく息を少しずつ吐いた。ずっと呼吸を止めていたような気がする。

途端に、腰が抜けて、私は草の上にへなへなとへたりこんだ。同時に、洋司が「熊、あっちいったな!」と言いながらこちらに戻ってく。

「洋司! ひどいよ、1人で逃げるなんて最低!」

私は思わず帽子を取って彼に投げつけた。1年付き合っていて、彼に足して声を荒げたのは初めてかもしれない。それまで物分かりが良くて優しい年上の彼女を気取っていたことに気がついた。そしておそらく彼も、何かを演じていただろうに、うっかりこの非常事態でお互いの仮面が外れてしまった。

しかし、30歳もずっと過ぎていれば知恵もついている。私はほとんど無意識にリカバリーの体制に入った。熊ごときで、ようやくここまでつないだ結婚目前の恋人と別れるわけにはいかない。

絶対に、この男のためにここまで費やした時間と、砕いた心を無駄にしてたまるものか。

「でも、とにかく洋司が無事でよかった。私、怖かった……」

私が抱っこ、のポーズで甘える仕草を見せると、彼もほっとしたようにこちらに歩いてきて、私たちは抱き合う形になった。

そのとき、彼のゴアテックスのレインコートの下から、妙に甘いフローラルな柔軟剤の香りが漂った。

「映美ちゃんごめんね。オレ、山菜採り毎年来てるけど、熊に遭遇したのは初めてで、パニックになっちゃったんだ。許して。一緒に映美ちゃんもダッシュしてくると思って」

洋司はそう言って拝むようなしぐさをしたあと、さっき放り投げたために周囲に散らばったリュックや山菜袋を拾い集める。

スーパーの大きな袋に、4つ分の山菜。

せいぜい1週間しか日持ちしないといったこの山菜を、彼は一体なぜこんなにたくさん採ったのだろうか。天ぷらやおひたしにすると言ったけれど、面倒な下処理や調理を、一体「誰が何人分」するというのだろう?

考えてはいけない方向に思考が進んでいくのを感じる。

私が北海道に来たのは今回でたったの3回目。いつも彼が来るばかりで、彼のアパートにはまだ1度も行ったことがない。理由をつけては、ホテルに泊まっていた。

「オレ、明日の日曜さ、どうしても外せない用事があるから、今夜は泊まれないんだけど、来週は東京にいくから。行者ニンニクを漬けて持っていくよ。楽しみにしててよ」

その漬物は本当に独身であるはずのあなたがしているの? それとも家にいる、ほかの誰かが――。

「楽しみ」と答えながら、私は今、見たいものを見るか、見たくないものを明らかにするか、選択を迫られているように感じていた。

熊と対峙したときとはまた違う、ぞっとするような心地が、足元から這い上がってくる。

 

次回予告
ヘアサロンにやってきた上品な女性の、驚きの独白とは……?

小説/佐野倫子
イラスト/Semo
構成/山本理沙

 

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