「見た目」で憎悪することと「容姿」で評価することは表裏一体


かつて海外に渡った日系移民の人々は、アジア人の容貌や言葉の壁を理由に差別され、排除されて大変な苦労をしました。太平洋戦争の際、アメリカでは日系人は危険な存在とみなされて強制収容され、米国への忠誠心を示すために兵士となった日系米国人の青年たちは激戦の最前線に送られたといいます。2020年に新型コロナウイルス流行が拡大すると当時のトランプ大統領は「チャイナウイルス」と連呼し、その結果アジア系アメリカ人へのヘイトクライムが激増。アジア人であるというだけで暴行されたり殺されたりした人が大勢いました。日本人も被害に遭っています。親の代からアメリカで生まれ育ち、英語を話しているアジア系アメリカ人も、憎悪の対象となったのです。ただ東洋人の見た目をしているというだけで。

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いま日本では、多様な人種的・文化的なバックグラウンドを持つ人たちが、さまざまな立場で、母語ではない日本語を使って暮らすようになっています。その人たちと共に社会を作る他に、この人口減少超高齢社会を維持する方法はありません。誰が日本人で誰がそうでないのか、見た目や立場や言葉で線引きし、あげつらう振る舞いは、それこそ日本の利益に反する行為と言えるでしょう。

 


このミス日本の話題では、もう一つ重要なポイントがあります。そもそもミスコンをやめたらどうか、です。いくつかのミスコンテストがありますが、内面や知性も問うと言ったところで、容姿を比べて優劣をつけることに変わりはありません。指定されたドレスや水着や着物を身につけた出場者を審査員が眺め、体格の均整を比較し、商業的基準に照らして誰がより視覚的に美しいか、性的魅力のある体つきかを判定するのですから、女性を見た目で評価する催し物です。知性や人柄を評価対象に加えたところで、ルッキズムに加担していることは否めないし、女性の品評会という性差別的なイベントである面も否定できません。だからもう、廃止すればいいのにという声が高まっています。私も同感です。

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女性が外見の美を大事にすることには全く反対しません。それで自分自身といい関係が築けるなら何よりだし、自分の体をどうしようがそれはその人の自由ですものね。ただ、コンテストがなくても自分のケアはできます。ボランティア活動や社会課題の啓発活動への参加も、ミスコンがなくてもできます。いろいろな国際的なイベントの使者を務める人を選ぶのなら、若く美しい女性に限定しなくてもいいのではないでしょうか。うちの国で選りすぐりのとびきりの美人を遣わしますよ! というのでは、まるでお供物のようです。社会の関心を掘り起こすためには注目を引く若者が必要なのだというなら、今はSNSがありますよね。実際、そのようなインフルエンサーがたくさんいますから、ミスコンを開催しなくても若い人が大事なことを世の中に伝えるチャンスはいくらでもあるのです。もはやミスコンは、それを開催することによって潤う人たちのためにしか存在意義がなくなっているのは、大学の学祭でも同じことです。広告効果を狙った大人たちが群がる学祭のミスコンを巡っては、運営側による性暴力事件まで起きています。ミスコンで誰が得するのか、誰が潤うのか、誰が見たがるのか、誰が奨励しているのか。もうやめるべき時が来ています。