「業平さん。私に少しだけつきあってくれません? 一杯だけでいいので」
 私は本来そんなことを言う人間ではない。それなのに、なぜ、そんなことが言えたのか。なぜだか彼が断るわけがない、という確信が私にはあった。治療を途中でやめてクリニックに来なくなったこと。結婚がだめになったこと。彼はそれを誰かに吐露したいはずだ。それだけでも彼の手持ちのカードは弱い。私はずるい。それを知っていて彼を誘った。
 彼は最初、この人はいきなりいったい何を、という顔で私を見つめていたが、すぐに人なつこい柴犬の顔になった。
「駅の近くに馴染みの焼き鳥屋があるんです、そこでよかったら」
 カフェを出て駅に向かうと、雨が降り出した。私たちは自然に早足になった。私のバッグの中には折り畳み傘が入っていたけれど、彼と二人でひとつの傘を共有することにはまだ抵抗があった。
 その店は巨大なパチスロ屋の並び、すぐそばには風俗の無料案内所があるような猥雑な通りにあった。カウンターだけの店。まだ早い時間なのに、席は私たちが来ることを待っていたかのようにちょうどふたつしか空いてはいなかった。彼と、大将と呼ばれる店長は顔なじみなのか、彼の顔を見ると、
「おっ、ひさしぶりっ」と大げさな声をあげた。
「何にします?」と彼に聞かれてビールを頼んだ。
「あ、瓶で」
「じゃあ、まず瓶ビール。それからいつもの」
「かしこまりっ」と店長の声が狭い店内に響く。鶏を焼く脂と煙が店内に満ちていた。髪や服に、においが染みつくだろう。女慣れしている男なら、まず連れてこないような店だ。カウンター越し、赤い炭の熱が顔を火照らす。私は冷えたおしぼりでそっと額を拭いた。すぐにやってきた瓶ビールを彼がグラスに注いでくれる。お酒を注がれるのも、注ぐのも嫌いだが、私は黙っていた。私も注ぎ返そうとしたが、彼の手のほうが早かった。素早く自分のグラスに注ぐ。
「じゃあ、乾杯」
 彼がそう言ったので、私も慌ててグラスを掲げた。
「ああ、おいしい」
 思わず声が出た。心からの声だった。お酒はそれほど飲むわけではない。時折、仕事帰りにコンビニに寄って缶ビールや缶チューハイを買うか、佐藤直也と会うときに飲む程度だ。
「ほんとうにおいしそうに飲まはりますね」
 彼の言葉が突然、関西のものになった。なぜだか、その言葉に胸のあたりをきゅっとつままれた気持ちになった。
「でも、僕もおいしい」
 しばらくは彼が時折、関西の言葉を交えながら、一人でしゃべった。神戸の出身で、大学は京都で、就職を機に東京に来たこと。文房具メーカーの営業をしていること。今日は担当の四国まで行って帰ってきたこと。言いながら、彼がスーツの内ポケットから名刺入れを出して名刺をくれた。日本の誰もが知っている会社だった。業平公平。そうだった。そういう名前だった、とやっと記憶の点と点とが結ばれた。
 営業という職業柄なのか、彼の話はうまかった。こちらに過度の緊張を強いない。佐藤直也と正反対だ、と思った。
 もろきゅうが二人の間におかれた。もろきゅうなんて食べるのは何年ぶりだろう、と思いながら、箸できゅうりをつまみ、もろみ味噌を少しつけて囓った。きゅうりとは、こんなにもみずみずしく歯ごたえのあるものだったか。改めて思った。食べているものすら見ず、空腹を満たすだけの食事を、自分は今まで何回繰り返してきたのだろう。私は咀嚼しながら彼の顔を見た。私の視線に気づいた彼が目で笑いかける。うまいでしょう、という微笑みだった。「おいしい」と私が言うと、彼は自分が褒められたかのような顔になった。瓶ビールを追加したところで聞いた。