なぜ、「他人の不幸」は蜜の味なのか
さて、「他人の不幸」は蜜の味、などと言いますが、反対に「他人が幸せになったとき」はどんなふうに言えばいいでしょうか。他人の幸福は反吐の味、とでも言えば、当たらずといえども遠からず、といったところでしょうか。
誰かの不幸を願う……。そこまではいかずとも、人間は「誰かと一緒に幸せになる」ということを、苦手とする不思議な脳を持ってしまっています。それは、ただただ悲しいことかもしれません。こういった脳の性質は、克服できるものなのでしょうか。克服できないまでも、うまく活用していくことができるものなのでしょうか。ここで、考えてみたいと思います。
同僚の収入が増えると、自分の収入が同じ額だけなくなったように感じて、ネガティブな感情を味わう、という研究についてもう少し掘り下げてみましょう。
自分は一円たりとも損をしていないはずなのに、誰かが得をしていることを知ると、なんだか自分が実際に損をしたような認知が生じてしまう、というものです。
コロナ禍では、Go To トラベルやGo To イートなど、事業者をなんとか救済しようとさまざまな施策がとられました。一方で、これらの動きに対して、不満の声も聞かれました。恩恵を得るのは、飲食店や旅行業者など、国民全体ではなくある業種に限られているということから、利権政治ではないかとこれに反発した人たちです。
国民全体が得をすること自体に異を唱える人はいないでしょう。
けれど、自分は恩恵を得られないのに、誰かが得をしているのは許せない、と感じる人が相当数、存在したのです。今回のコロナ禍においてそのことが見える化されてしまったな、と私には感じられました。
ただ、こうした構図は、今はじめて明るみに出たわけではなく、歴史的にくり返されてきた流れではあります。誰かが公的な援助を受けて立ち直った、誰かが富裕な人の助けを受け得をしている、そうした報道を見て、イライラしている自分が心の中にいることに気がついた人もいるかもしれない。そんな自分に軽くショックを受ける人ももしかしたらいるかもしれません。
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