色々な美しさがあっていい!


時代と共に、美しさは変わってきています。例えば、江戸時代の美人画の女性は、目が細くて、さっぱりした顔立ちが多いものです。ある意味、“日本人らしい顔”といっても、過言ではありません。
それがいつの間にか、「欧米的なハッキリした顔立ち」が美人という価値観になり、目は大きく、鼻は高いのが「美しさの要素」に変わり、日本人の女性たちは化粧によって、顔の凹凸を表現するようになりました。
ふと思うのです。「美しさの正解」だというものが出てきてから、似たような顔の人ばかり増えてきたところもあるなぁと。しかも、それは、本来の日本人らしい顔とは程遠くなっているところもあるかもしれません。

 

本来は、「美しさ」なんて“抽象的なもの”であり、正解なんてないはず。人それぞれの「好み」ですしね。
それなのに、どんどん“欧米的な美しさ”を植え付けられ、日本人らしさを失っていくのは、少し危機感を覚えます。「日本人が、日本人らしさを否定すること」にもつながるからです。「もっと色々な美しさがあっていい」と思うのは、私だけでしょうか。

体形が細かろうが、太かろうが、目が大きいだろうが、小さいだろうが、鼻が高いだろうが、低いだろうが、それぞれに美しさがあってもいいと思うのです。
少なくとも、そんな勝手に作られた「美しさの基準」に合わせようとして、無理をすることがいいことだとは思えません。
それよりも、自分の素敵なところを見つけ、好きになることのほうが大事なはず。そういう自信が、その人の雰囲気や言動を輝かせ、美しくするところもあると感じるのです。

ただ、現実問題、私たちは無人島に1人で生きているわけではないので、メディアや周りの人の反応に影響を受けます。だから、いくら「私は素敵だ」と思っても、メディアが真逆の美しさを「正解」のように表現していたり、関わる人たちが自分を認めてくれなかったりしたら、それでも「自分は最高なんだ」と肯定できるほど、メンタルの強い人は稀でしょう。

だからこそ、メディアから変わっていく必要があるし、逆に、私たちは今まで「美しさの価値観」を植え付けられてきただけで、「それだけが美しさとは限らない」ことを、きちんと認識する必要があるのです。
「美しさの多様性」は、単なる理想論ではなく、現実にできるのかどうか……。今後の「美の価値観」の変化に、注目したいものです。
 

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