過去からの電話
「……久住さんは、なんのために働いてるのかなと思うことってありませんか? ずっと同じ会社に勤めてると、知らないうちに狭い常識に捕まって、本当は何が正しいのかわからなくなる気がする」
店主の洋二は、明日の仕込みだろうか、厨房で小気味良い包丁の音を立てている。結子は久住のほうを見た。
「何のために、か。うん、それはしょっちゅうありますねえ」
「久住さんは何のために、働いてるんですか?」
いささか不躾な質問だったはずだ。それでも久住は、うーん、と斜め上を睨んで思案する。
「まずは生きるためかな。毎日を生きるために生活の糧を得る。できればちょっとは社会の役に立って、それが多少は自分らしい方法だったら上等ですね」
「久住さんみたいに人より優れたものがあったら、社会に貢献したいって思うの当たり前です。でも私はそうじゃない。結局はCAとか大企業っていうパッケージがないと、通用しないんです。だからそれを脅かすような存在に、いちいち動揺するのかもしれない」
「うん、それは、わかる。僕にもそういう部分はあるな。大新聞社の記者だから、プライベートは犠牲にしても仕方ないと思っていました。大いなる使命の前には多少の不具合はしかたないってね。でも、それは間違いで、大切な人を傷つけました」
「むかしの、奥様ですか?」
結子が囁くように尋ねたが、久住は答えなかった。離婚歴があることは、以前彼の口からきいていたが、いつ、どうして離婚したのかはもちろん訊いたことがなかった。視線を落としたままの穏やかな微笑みは「ここまで」と言われているようで、結子はお酒が入っているときで良かったと思った。
酔っていればこの会話はなかったことにして、次はまたいつもの二人に戻れる。踏み越えそうになった「境界」から、結子は飛びのいた。
「あ、もうこんな時間。明日の訓練も早くて。そろそろ帰りますね」
ことさら明るく告げて財布を探す結子に、久住は何か言いかけた。しかしそれよりも少し早く、彼のポケットのスマホが震えた。新聞記者の職業病だろう、間髪入れずに取り出して目を走らせた画面には「紗矢」とだけ表示されていた。
――どこかで聞いた名前。
久住は焦った様子で結子に「失礼」とつぶやくと席を立ち、寒風吹きすさぶ店の外に飛び出した。引き戸を後ろ手に閉めるとき、スマホから「もしもし? 孝弘?」と声がした。
甘くて、余韻のある、生々しい声だった。
「――ヨージさん、お会計お願いします」
カードを差し出すとき、自分の手がかすかに震えていたことに、結子自身が一番驚いていた。
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