高すぎる自尊心から虎になった男


翌日の土曜日。不動産会社の営業職で、土日のどちらかが出勤になる桃香にとって、佐知と過ごせる休日は貴重だ。あいにくの雨で、出かけるには寒すぎるのが残念だ。佐知も公園に行くでもなく、朝から読書にふけっている。

「佐知、何を読んでるの?」

桃香は佐知にココアを淹れながら尋ねてみた。佐知は読書に没頭している。佐知の本を読んでいるときの集中力はすごかった。

「山月記。古い本で短編なんだけど、すっごく深い話」

「さんげつき? 聞いたことないなあ、最近の本?」

「……えーとね、昭和初期の中島敦の名作だよ」

佐知はクスクス笑いながら、桃香が入れてくれたココアを受け取る。ふーふーと頬っぺたを丸くする様子は、まだまだ11歳だ。

「どんな話なの?」

「中国の昔の話で、秀才だった親友が虎になってしまって、山で再会する話」

「それ……面白い?」

「面白い。この親友はね、自分の詩人としての才能の限界に直面するのが怖くて逃げちゃったの。本当の力を試したり、認めたりすることができなくて、逃げて逃げて、虎になっちゃったっていう、深い話なんだよ」

桃香はテーブルの上にある、ボロボロの図書館の本に視線を落とした。それから自分の全然知らない古典小説について語る娘の顔を見た。もうすぐ12歳。まだまだ子どもだと思っていたけれど。

「……自分の力ってさ、試さないとダメなもの? 佐知はどう思う?」

桃香の問いかけに、佐知はうーん、と明るい表情で答えた。

「試したいなら、試さないなんてもったいないんじゃない? 世界は広いんだからさ、遠くに行きたいならまずは挑戦するしかないでしょ」

そんな風に考えているなんて知らなかった。桃香は目をしばたたかせた。自分が毎日の仕事に必死になって、おかずや節約、振込やノルマに必死に取っ組み合っている間に、小さかったはずの佐知はどこか遠くを見ている。そんな風に将来に目をやりはじめた彼女の指標が、図書館の本頼みというのは果たして充分なのだろうか?

 

「佐知さ、難しい学校とかって興味あるの? この前先生が、佐知が私立中学に行った子にいろいろ訊いてた、って」

 

桃香が、もじもじと尋ねると、佐知は笑った。

「ああ、楽しそうだなって思って。なんせ、私がいく中学の先輩は近所の顔見知りばかりで、あんまり小学校と変わらなそうだから。遠くにいった先輩の話、貴重でしょ」

「……じゃあ、もうちょっと一緒に聞きにいこうか。 ママさ、さっきこんなの見つけたんだ」

桃香はタップしてスマホを見せた。夢を見て起きてしまったあと、明け方までベッドでひたすら検索した私立中学や中学受験情報。その中で、ちょうど今日都心で開かれている「中学受験フェア」なるものを発見した。入場無料、いろいろな学校の話が聞けるらしい。

「ちょっとママ、あのねえ、こういうのは塾に通って本気で勉強してる親子が行くんだよ。私とママみたいなのが面白半分に行くとこじゃないんだって」

「面白半分じゃないってば。ママ、佐知が遠くに行く方法も、中学受験のことも全然わかんないんだもん。こういうときはね、素直に聞くに限るんだよ。100校以上の先生がいて話をきけるなんて最高じゃない。ランチがてら、行ってみよ!」